夕方、春の雨が降った。午前中は五月のように暖かく晴れて、カットソー一枚で犬と遊んだ。スーツを新調して春の私服を贖った。途中喫茶店でマンゴーティを飲みながらビートルズを聴いた。それから靴をもう、履き潰してしまったので新しくした。同じような靴だ、もう四つも似たようなものを履いている。ある女性が、ぼくを頭から順に下を見ると、裾までは文句なしだが、足元だけが撚れているとため息をついたことがあった。ぼくはそれでいいのだと言った。靴は撚れていた方がいいのだ、特に皮の物であれば尚更である。きれいな道ばかり歩いていては面白くない。ぼくは革靴で野球だってするし、山だって登る。さらに言えば、靴は幾つも持たない方がいい。足元の力学的なバランスは思っているよりもずっと繊細な塩梅で決定づけられ、思っているよりもずっとその人自身にとって重要であると、スポーツ工学を学ぶ後輩が言っていた。彼はぼくのスローイングフォームを褒めた。
卒業が決まった。一週間ほど前の話だ。おとといには配属先が決まった。まずまずだ。あたかも順調にぼくの人生が流れていく。
帰ると弟も帰宅していた。春らしく、ぼくらは黙りこくった。バナナをかじるぼくの横で弟はギターを弾いていた。傍らにはスケッチブックがあった。部屋の中のあらゆる部分が美しい筆致で描かれていた。ぼくはそれを眺めながら二本目のバナナを食べた。
無数のジレンマが絡み合うことでぼくは構成されているようだ。それは不治の病のように、あるいは先天性の青あざのようにぼくの根っこを染めているようだ。ジレンマのイメージは多義的である。もっともシンプルな考え方をすれば、それは相反する二つの要素がせめぎ合う様子を指すだろう。しかしこれは単位に過ぎない。幾つものそれが合わさって、もはやそれは解くことのできない複合的なものになっている。これもまた一つのジレンマである。あるいは、こういった状態をどの場所にたって観測するのかによっても、べつべつのジレンマが存在しうるものである。このように、遂には元来そこにある本質的なジレンマ(概念においてさえ二次的ないしは原始的なジレンマ)に至って、