2016/04/09

切れぬ堰

 キーボードの前に座って一時間が経過したが何も書けない。季節が変われば、雪解け水のように山間部から冷たく透明に澄んだ心地良い水が流れてくるはずだと信じていたが、まるでそんなふうに上手くは行かない。上流では分厚くこわばったままの氷がごろごろと転がっているに違いない。しかし私は遡上も叶わず、河口でじっと待ちわびることしか出来ないのである。吃りのようだとも思ったがそれよりもずっとひどい。

 毎朝、薄暗い部屋で目を覚ます。シャワーを浴びて髭を剃り、髪を乾かしたら歯を磨く。決まって同じ順番を辿る。それから肌着、ワイシャツを着て、ネクタイを締める前に髪にワックスをやる。朝食は食べない。二日にいっぺんほどの頻度でお茶をグラスに一杯飲む。セーターを着て背広を羽織る。靴下は最後だ。風呂場の換気扇を回したことを確かめて、玄関を出る。

 ぼくはとりとめも無い思いの中、毎日会社で働いている。かつてはこういった思いを拾い集めて観察し、描写することが出来た。今では出来ない。出来ないから、本当に「とりとめも無い」思いなのだ。どうして出来なくなったのかは分からない。能力が無くなったのか、時間が足りないのか、体力が落ちたのか。分からない。時間の経過はあまり関係がないように思っている。いずれにしても、ぼんやりとしていて掴み所に欠く、靄のような感覚が常に頭に擡げている。胸焼けのようでもあり、眠気のようでもある。疼痛でもあれば、むず痒さでもある。よく分からない。ぼくには以前、たくさんの分からないことがあった。少しずつ分かるようになってきたが、ものによっては、それが見えたからこそ、それよりもずっと多くのものが見えなくなってしまうような性質を帯びている。そうしてこの性質を帯びているものが、実はとてもたくさんある。これは厄介である。だからと言って、見なくていいわけではないと思う。本筋は、それで見えなくなってしまったものも探し直して、隈無く照らして理解することであると思っている。そう、これはとても骨が折れるし、時間がかかるし、疲れてしまう。しかしね、そうやって考えることで、立体的に物事を捉えられるようになると思うんだ―などと書いてみたところで、やっぱりぼくにはなんにも見えないのである。