2017/01/22

大寒

 あ、と、声ならぬ声が、乾いた喉の奥から鳴った。朝方抜けていた青空は藁半紙のように黄ばんだ薄雲に隠されて、私は喫茶店から部屋に戻り、ジーンズを脱いで毛布にくるまっている。ふと思い立って、かつてよく聴いていた音楽を流しながら、ベッドの中で文章を書いている。もう六年近くも前のこと、震災のあった直後、ぼくは湘南のアパートの一室で、家具も揃わないうちに音楽をかけて過ごしていた。大学の入学式が震災の影響でひと月遅れることが分かったのは部屋の契約を済ませた直後だったために、上京を遅らすことも出来なかったのだ。私は故郷を離れてリュックサックを背負い、新横浜で乗り継いで部屋にたどり着いた。

 過去にとらわれることについて、また、過去そのものについて、古今東西津々浦々の人々は考え表現し評価してきた。少なくとも私の周りにおいて、昨今の傾向として、過去にとらわれることは弱さに負けていることであり、かつ負けてしまっては不可ないという前提がある以上、それもまた不可ないことであるとされがちである。

 しかし私はずっと、それは入学前、薄暗い部屋で本棚を組み立てていたあのころよりもずっと前から、過去についてあえて執着してきた。何故ならば現在の(この文章を書いている時点での)私とは、それ以前の(つまり例えば、毛布に潜るまでの全ての)過去の積み重ねであるからだ。こういった趣旨の文章弁論をもう数えきれないくらいに繰り返してきたが、自分について考えることは、とりもなおさず過去について考えるということなのだ。然らば過去とは蔑ろにしてよいものか?勿論駄目だ。だから私は、過去の音楽を聴くのだ。

 まあよい。大学を出て二年近くも経つとは思えないが、しかし確かに時間は過ぎていったのだ。


 何も今の状況に満足していない訳ではない。むしろ大変満足している。しかし心のどこかでは、何か煮え切らないものが瘡蓋のように張り付いていて取れない。それは容易には表現のしようもない、わずかな違和感が幾重にも凝固して慢性化したような、気怠いものだ。目にも見えなければ、直接的に感じることも出来ない。

 私は如何したいというのか。


 確固たる意思もないままに毎日を徒に過ごしている。くそ、こんな文章を書くつもりではなかった。如何してしまったというのだろう。昨晩はローマの休日を十余年振りに観た。面白かったが、面白いだけであった。