2022/08/17

自分自身について、自分と他者(社会)について

  会社勤めをしている中で感じるジレンマについて、ある日落ち着いて考えてみた。正しいかどうかは別にして、少なくとも今の自分にとっては腑に落ちる解釈に半ば至りつつあるようなので、覚えで書き留めておく。この考えを時間をかけてゆっくり深堀るには、最近の日々は忙しすぎるため。(とはいえ、今このタイミングを逃すと、途中まで進めた考えでも、今度続きを始めようとした時点では、もうまったく別の発想が出てきたりするかもしれない。むろんそういったことも念頭に置きながら、書き記す。)

 ここでいうジレンマとは、会社勤めをしているときのみならず、社会の中の自分という構図・立ち位置について考えるとき、時折直面するものである。すなわち、社会的正当性(正当ということが確からしいだろう性質)と、自分自身との間に生じる乖離感のようなもので、自分のポリシーとは一致しないが、しかし社会的存在としての自己を重んじれば、取らなければならない選択肢を選ぼうとしている瞬間などに、ぼくの眼前に、そのトゲトゲが現出する。

 で、結論から言えば、これはおそらく、自分の内面の整理と、自分と他者との関係性の整理とを考えたとき、それぞれを構成する要素がすべて一致しなければならないのではないか、というある種の強迫観念にとらわれるからではないか、と考える。

 つまり、自分自身の中で正しいと思われている様々な考え方(それは外面に表現するものもそうでないものも含め)が、他者(あるいは社会)と自分との関係性においても、必ずすべて同様に、正しいと評価されなければならない、と思い込んでしまっている、ということだ。普段、自分の頭でいろいろなことを考えているようで、ややもすると、あるいは上記のような状態に陥ってしまうようなことは、ぼくに限らず、多くの大人にとって屡々起こりうるのではないか。

 一方で、と、ここから、ぼくはその観念、焦りのようなものから抜け出すために一呼吸おいて、「自分の頭で」改めて考えようとした。こういうとき、頭を冷やして、数歩引いた距離から、自分を含む全体を眺めることが大切だ。もちろんこれは比喩で、例の自己の他者性の問題(自己を観察しようとしている主体もまた自己であり、完全な自己の客体化は実現しえない)を孕むわけだが、こういったケースにおいては、あくまで鳥瞰することを意識するということが肝要なので、そこまで厳密な定義は必要がないと考える。

 そう、それで何を考えたのか。

 話はきっと単純で、「いやいや、すべてが合一する必要はないよ」ということだ。寧ろ、自分の内面における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)と、自分と他者との関係における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)とは、多くの矛盾を抱えていても問題はないとも考える。

 そういった中で、両領域に幾つかの接点があり、それらの点の色合いが合一していれば、それで全く問題はないのだ。他者・社会は存続するのだし、その中若しくはその対岸に位置するぼく自身も、しっかりと存続していくのである。

 こんな具合で解釈すれば、無理なく自然な形で、自分についても、自分と他者との関係性についても、整理することができるように思われる。

 加えてさらに言えば、自分自身を整理すること、言い換えれば内省には、すでに前提として他者の存在があるということを忘れてはならない。人が利己的であることはごく自然なことであるが、利”己”という言葉がすでに、「他に対する己」という意味を持っている以上、すでに他者の存在を二項対立的に認めていることになるのだから。言いたいのは、先に述べた「自分の整理」というのは、その時点である意味他者との関係性を予言することを禁じ得ないということだ。

 これは一見すると(特に十代のころのぼくみたいな人間に言わせれば)、「迎合である」ように見られるかもしれないが、そうではなく、認識の正しい形での、誠意に満ちた精査であると考える。反対に、先の話に戻れば、自己と他者との完全な合一を信奉し志向することこそがまさに純粋なる迎合と言えまいか。その観点からすれば、自己という言葉が他者を内包しているという解釈は、寧ろ逆説的に(というべきか、構造的に、というべきか)自己の自己性を明示することに他ならない。

 以上のような解釈でもって、現時点では、自分自身について、自分と他者についてという問題に対するスタンスを取ろうと思う。