2023/08/14

静物的なイマージュ(台風がやってくる)

 古い文庫本の茶色く焼けたページを見つめながら、川沿いの春の夕暮れに、ベンチに腰掛け、ぼんやりととりとめのない妄想に耽っていた。それは二十歳か二十一歳の春であった。湿った足元、地面には数日前に散って萎れた桜の花弁が無数に斑点模様をつくっていた。ぼろのサンダルの中で爪の伸びっぱなしの指を折ったり伸ばしたりしながら、兎に角、百年近く前に自死した男の書いた文章を読んでいたのであった。その文庫とて高校生の頃に名古屋は本山の古本屋で買った代物で、おそらく八十年代ごろのものであったろうか。今思えば、ぼくは無意識的にそういう死んだものに触れることで、どうにかして今の自分の正気を保とうとしていたのだろうと思う。
 その川は江ノ島の近くに流れ出ていた。いみじくも同じ川が舞台として、その小説の著者の別の作品に出てきたときには驚いた。そういう恣意性から遠くにある偶然の経験が、ぼくの考えを決定づける。逆に、予定された経験や、あるいはまったくの無思考の中にある経験みたいなものが、ぼくはこの頃から今までずっと嫌である。この自分の性質をぼくは気に入っているけれど、はっきり言って、生きづらい。(しかし人生とは生きづらいものだし、一切皆苦というのはぼくはしょっちゅう引用するけれど、つまりそういうことだと信じているので、少なくとも自分にとっては論理的に正当なのだ、これは蛇足であるが消さない)
 別の夏の夕暮れに、この川の河口付近で本を読んだこともあった。匂いを嗅ぎながら、海岸の音や気配に包まれて、ひとりで過ごした。


 ひとりで過ごす時間が多かったし、できるだけそういう時間を大切にした。それは大学時代のみならず、その前も、あともそうだったけれど、悲しいかな、家族ができるとそうもいかない。もっと努力をしなくちゃならない。

 ぼくは人はやはりひとりで生きるものだと思う。これは何も、人はひとりでは生きられないという使い古されたいわゆる常識に対する完全なアンチテーゼではない。ぼくは、ある意味では、やはり人には孤独的な”要素”が必要であろうと思う。そんなことをここ数か月考えていたような気がする。(いつもフワフワとしたガスのようなものが浮かんできては、忙しくしている間に消えて行ってしまうのだ)
 なぜか?それはやはり考えるためなんじゃないか?孤独でないと、常に人といると、深い思考はできない。すぐ上にも書いたように、考えるきっかけやヒントや発想に出会えたとしても、そこに他者とのコミュニケーションがある時点で(あるいはその瞬間に物理的にひとりであったとしても、他者とのコミュニケーションというものに習慣的に囲まれていたり、それが前提の思考である時点で)、具体的実存的存在としての自己の内面に深く抉るように潜るように思考することは、できないのだ。

 そう、ひとりの時間に、じっくりと自分の考えの階段を下りていくことがとても大事なのだと思う。一段一段確かめながら、真っ暗闇の中の螺旋階段を下りていく。音楽は聞こえているような気もするし、そうでない気もする。足の裏は硬い一段をとらえているような気もするし、わずか浮かんでいるような気もする。そういう行為がその人をつくるんじゃないか?


 それは名古屋駅近く、高層ビルの半地下にある純喫茶かもしれない。あるいは鎌倉に道に迷った先にあった謎のダイニングバーかもしれない。裏横浜のいつものロック・バーのヒゲのおじさんや、飲み友達の酒乱数学教師や、岐阜のメキシカンバルの靴屋芸術家や、元住吉の細くて背の高い女の子の家でユニフォームを脱ぎながらYUKIを聴いた夜かもしれないし、伏見稲荷をのぼっている最中に知り合った一橋の米留学生と、下山後に食べた親子丼かもしれない。肺を患って、携帯電話を使えるスペースまで管と機械を引きずって歩いて、痛みに耐えながら聞いた女の子の声かもしれないし、イギリスから一時帰国する便で眠れずに聴いたMP3プレーヤーのMEGARYUかもしれないし、京都の部屋で嗅いだいい匂いかもしれない。

 とにかく、淡くも鮮やかで、確かな画材で描かれた静物画的なイマージュが、ぼくを何とか生きながらえさせている。ぼくはいつも過去だと思う。今のぼくはただの、最新の過去に過ぎないのだ。ぼくはいつも過去にいる。そして過去の素晴らしい記憶の中で、こんな風に、時々酔っぱらいながら、意味のない文章を書いている。そうしてきっとすぐに四十になって、五十になって、どんどん訳が分からなくって、過去の中で死んでいくのだ。死んだときに(ぼくにとっては、考えつくしたときに)、はじめてぼくは動かぬ過去になる。完結した過去になる。もしかすると、それをどこか夢見て、ぼくは”今の過去”に執着しているのかもしれない。


 妻が子どもをふたり連れて今日明日と実家に帰っている。ぼくも行くつもりだったが、台風が来るので、自宅で仕事をすることにした。彼らは昼は鰻、夜はすき焼きを食べたそうだ。ぼくはひとり酒を飲んで音楽を聴いて文章を書いた。これでよいのだ。これがぼくにとっては何よりもの滋養なのである。悔しいからアイスも食べた。
 ぼくはひとりだと思う。思いたい。ひとりとしてのぼくがいるから、妻や子どもやいろんな人たちに、思いやりを持つことができるのだと思う。

 台風がやってくる。それは遥か南方からやってくるのだ。台風の生まれる海域ではどんな時間が流れているのだろうか?ぼくはモルディブで宿泊したヴィラのハンモックで揺れながらそんなことを考えた。つまり、人間のいない海原で、そこで自然はどんな形をしているのか?誰にも認識されない海上の中空は、いったいなんなんだ?不安とも高揚とも言えぬ妙な気分になった。そんな海域で人知れず生まれた台風はセンサーによって数値化された形でおそらく不本意にも事前に認識され、そしてぼくらのもとにやってくるのだ。

 台風がやってくる。もう少し酒を飲んで寝ようと思う。明日は電車も動かないらしい。