サンドウィッチとヨーグルトを食べて、腰が重い。大学に行かなくちゃなあ。行きたくない。音楽を聴いて一日を過ごしたい。何も思うことはない。ただぼくはじっと座っていたいのだ。外は風が強すぎる。
2013/10/10
2013/10/08
2013/10/07
僕と彼女と週末に
経験というものについて考える必要があると思うわけ。経験とは何か。経験は必要なのか。ぼくはね、経験という言葉そのものに対する認識が甘いように感ずるわけだ。つまり、ろくでもないものを経験と名付けて崇拝し、本質をあたかも探り当てたような気でいながら、実は本当の本質はその影に隠れてさらに、これまでよりもずっと深いところに落ちて行ってしまっているのかもしれない。それは恐ろしいことだ。ぼくらは震災を、戦争を追体験した気でいながら、結局生きているのだ。
はっきり言って、経験なんてえのは大したものではない、とぼくは思うわけだ。無論、ジャンルには依ろう。表面的に、例えば利益を上げるためには、現場の経験というのはモノを言うはずだ。けれども、死者について考えるとき、経験なんてものは全く意味を成さないはずだ。ぼくはそう信じる。これはナマケモノの負け惜しみでは決してない。心の底から思っている。経験?ならばぼくは死ぬべきだ。そうは思わないか?
昨日は二試合で5打数3安打。藤沢市リーグでは今季通じて13打数8安打。打率.615。全身の筋肉が軋むように痛い。大学に行こう。
はっきり言って、経験なんてえのは大したものではない、とぼくは思うわけだ。無論、ジャンルには依ろう。表面的に、例えば利益を上げるためには、現場の経験というのはモノを言うはずだ。けれども、死者について考えるとき、経験なんてものは全く意味を成さないはずだ。ぼくはそう信じる。これはナマケモノの負け惜しみでは決してない。心の底から思っている。経験?ならばぼくは死ぬべきだ。そうは思わないか?
昨日は二試合で5打数3安打。藤沢市リーグでは今季通じて13打数8安打。打率.615。全身の筋肉が軋むように痛い。大学に行こう。
2013/10/03
文章
爪楊枝を半分に折って、真白なテーブルに置いた。それを毎日毎日、暇の限りに続けた。無数の爪楊枝(の残骸)は少しずつ山を形成し始めた。或る夜、初恋の彼女のことを想いながら楊枝を折ると、いつもよりも乾いた音がした。そうしてそれをテーブルに置いた時、山が思いのほかうず高く、美しいものになっていることに気が付いた。横に置かれたシガーケースや、或いはデジタルアラームよりも背丈は高かった。ぼくはブランデーをぐっと飲み干すとその山を眺めた。
急峻な崖の表面は、複雑に絡み合った楊枝がささくれ立っている。長短さまざまなそれぞれが、妙に間抜けで見とれてしまった。ぼくはエディ・ヴェダーを流して、もう一杯ブランデーを飲んだ。煙草は我慢した。間違いなく、ぼくは彼女のことを考えている。
どういうわけか、異邦人の一節を思い出した。ムルソーは自室のバルコニーから通りを眺めている。見下ろすとそこには、当然のように街の景色が広がっている。暇を持て余す彼は、昼過ぎから昼下がり、日が沈むまで、じっとこの通りを見ているのだ。まるで今のぼくのようだ。そう、そこにこそ太陽は現れ、それに目が眩むのかもしれなかった。異邦人をぼくは、毎年大晦日に読んだ。ここ二年近く読んでいないかもしれない。少しずつ変わっているのだろうか。いずれにせよ、この楊枝の山にはムルソーも上ろうと思うに違いなかった。シーシュポスでなくとも、そこに神秘性がなくとも、確かにこれは、ぼくの眼前に立ちはだかる絶壁は、彼に対する山であった。(00:05)
*
早朝の微睡みの末、故郷の夢で目を覚ました。夕方、畦道を歩いていた。ぼくのほかには誰もいない。淡く青く澄んだ秋の空はその遥か高くに鱗雲をはりつけて、徒に飛んでいく鳥の群れを見下ろしている。そうしてぼくは、宛ても底も知れない黒く渦巻く欲望を腹の奥で感じるのだ。やりきれないその塊を。日が傾いて、本来ならばすぐにでも夕刻の橙に包まれるところ、その夢には時間の経過がないようで、ずっと、空の色は変わる気配が無かった。それはぼくをひどい絶望感に晒した。いつしかぼくは夜を望むようになっていたのか?肌が痛く感じられた。欲望が内側からやってくる感じだ、張り裂けそうな肌の痛みはやがて快感に変わった。スニーカーの立てる乾いたアスファルトの音は振動になり、痛みになり、ぼくの頭の中を走り回ってやまない混乱のことを、心なしか和らげてくれるのかもしれない。
目を覚まして、ぼくはじっと考えた。もう諦めてしまった方がいいのかもしれない、と。実態の無いものごとに心を焦がれて疲れてしまうよりも、もっとソリッドな姿勢を保つべきなのではないか。例えば、今日の研究会に向けて、或いは、もうじき始まる就職活動について。ほとんど実体のない女性に拘泥することに、果たして意味はあるのだろうか。
しかしまあ何とも、ロジックは通用しそうにもない。
ぼくは電話を待つ。古今東西の音楽を穴倉に垂れ流しながら、それを待つ。
…待つしかないのだ。(09:28)
*
早朝の微睡みの末、故郷の夢で目を覚ました。夕方、畦道を歩いていた。ぼくのほかには誰もいない。淡く青く澄んだ秋の空はその遥か高くに鱗雲をはりつけて、徒に飛んでいく鳥の群れを見下ろしている。そうしてぼくは、宛ても底も知れない黒く渦巻く欲望を腹の奥で感じるのだ。やりきれないその塊を。日が傾いて、本来ならばすぐにでも夕刻の橙に包まれるところ、その夢には時間の経過がないようで、ずっと、空の色は変わる気配が無かった。それはぼくをひどい絶望感に晒した。いつしかぼくは夜を望むようになっていたのか?肌が痛く感じられた。欲望が内側からやってくる感じだ、張り裂けそうな肌の痛みはやがて快感に変わった。スニーカーの立てる乾いたアスファルトの音は振動になり、痛みになり、ぼくの頭の中を走り回ってやまない混乱のことを、心なしか和らげてくれるのかもしれない。
目を覚まして、ぼくはじっと考えた。もう諦めてしまった方がいいのかもしれない、と。実態の無いものごとに心を焦がれて疲れてしまうよりも、もっとソリッドな姿勢を保つべきなのではないか。例えば、今日の研究会に向けて、或いは、もうじき始まる就職活動について。ほとんど実体のない女性に拘泥することに、果たして意味はあるのだろうか。
しかしまあ何とも、ロジックは通用しそうにもない。
ぼくは電話を待つ。古今東西の音楽を穴倉に垂れ流しながら、それを待つ。
…待つしかないのだ。(09:28)
2013/09/30
雲を確かに掴む
生きると言うのは、なんと苦しいことなのだろうか。マンドリンの音が暗闇の中を滑って行くと、ぼくには時間の過ぎていくことが途端に痛く感じる。ぼくの生はフロアリングの上にぽとりと落ちて、過去から未来へとゆっくり転がっていく。この時間は二度と訪れはしない、それはもう、古代からすり減るほどの回数、認識されてきた概念だ。けれども、そうなのだ。このどうしようもない倦怠、時間があるからこそぼくらは一人ぼっちなのではないか。縋ることはできやしない。女の子も去っていく、時間と同じように。一人を抱いていたって、すぐにそれは朽ち果てる。そうすればぼくはまたひとりだ。
二つに折れたつま楊枝を山のように積み上げた。ぼくは毎晩のように彼女の夢を見る。自分でも情けが無い。気持ちが悪い。けれども仕方のないことだ。眠れない中でふとした瞬間に陥る微睡みの中で、彼女はいつも楽しそうにしている。それがぼくには嬉しかった。
マンドリンが薄れて、消える。厳密に言えば、それは消えたことを気づかせないほどに繊細な終わりだ。沈黙の音が窓の外にして、ようやくぼくはそれに気が付く。そうすれば一安心だ。目を閉じて、眠れなくたっていいから、じっと考えるのだ。そうすればやがて朝が来るはずだ。
二つに折れたつま楊枝を山のように積み上げた。ぼくは毎晩のように彼女の夢を見る。自分でも情けが無い。気持ちが悪い。けれども仕方のないことだ。眠れない中でふとした瞬間に陥る微睡みの中で、彼女はいつも楽しそうにしている。それがぼくには嬉しかった。
マンドリンが薄れて、消える。厳密に言えば、それは消えたことを気づかせないほどに繊細な終わりだ。沈黙の音が窓の外にして、ようやくぼくはそれに気が付く。そうすれば一安心だ。目を閉じて、眠れなくたっていいから、じっと考えるのだ。そうすればやがて朝が来るはずだ。
2013/09/28
酔狂の所業としての乱文
夕方、鵠沼に一人で出かけた。行きしな、湘南台のマクドナルドでハンバーガーを食べたが、案の定気分は悪くなった。忘れたくって、コーラで流した。小田急線、鵠沼海岸駅で降車、地図も見ぬまま人の波について歩いていくと、ほどなく海が見えた。歩道橋を上ると、美しい青が一層映えた。四時台ではまだ橙は無い。しかし、堤防に腰かけて本を読んでいると、すぐに日は傾いた。西日に江ノ島が輝き、サーファーたちが影になった。烏帽子岩の向こう側で、鰯雲に薄く覆われた夕日は、間違いなくぼくに、長い年月のことを考えさせる。八年、九年、八十七年。
昭和二年のぼくの誕生日に、芥川は死んだ。そうして彼はその前年の引地川の川口を舞台にある掌編小説を書いた。まったく同じ場所に、ぼくは居た。不思議なものだ、とぼくは思った。突堤に打つ波の優しい音や、揺れる海面が反射して瞬く様子は、ぼくに無力感と同時に、命の実感を感じさせた。ぼくはその場で煙草を二本吸った。果たしてぼくの愛とはなんなのだろう。所在無さげな海鳥が夏の気配の一切失せてしまった海岸の上空で鳴いた。彼は泣いていた。
一時間と少し、ぼんやりしていた。磯の匂いなどまるでしない。日のほとんど落ちるか否かの時分に、往きと同じ歩道橋にのぼった。西の空には富士山の天辺が影になって見えた。建物や雲の上から覗き込むようにして、ぼくとそれとは対峙した。山よりもずっと向こうからやってくる日差しが、彼の存在感を強める。ポッケに入った小説の著者も、きっとこうして富士を見上げたに違いない、とぼくは確信した。確かにその描写はない。けれどもそのはずである。澄んだ秋の空気が一気に冷たくなるのを感じた。ぼくは引地川の岸を少し歩いて、本当は東屋の記念碑に立ち寄ろうと思ったのだけれど、気が変わって途中で踵を返し、やはり鵠沼海岸駅に歩いた。
湘南台につくと、辺りは暗くなっていた。ぼくはそれから二時間、喫茶店で時間を潰した。防災人間科学という本を読んだが、退屈だ。店を出るとすっかり夜である。家路、空を見上げると無数の星々が輝いていた。ぼくはまた、煙草を吸った。
不眠にはトリプトファンなるものが良いらしい、その好例にヨーグルトを食べるとよいと教わったから、帰り道に大きなプレーンヨーグルトを贖い、夕食の代わりに食べた。酒はよくないと言われつも、やはり飲んでしまう。ビール二本、ウイスキーを少々。ここのところ毎晩頭をぼうっとしている。ぼくは飢えている。何に飢えているのだ?腹も空かない、眠りも煙たい、情欲なぞ沸きもしない。けれどもそこには飢餓感がある。どうしようもない飢餓感、温くなったヨーグルトの容器を抱えて、ぼくは天井を見上げる。何もない。ぼくにはもう、何もないのか?
*
江ノ島を後にする直前、島の頂上に位置するサムエル・コッキング苑の灯台に明かりがともった。それはゆっくりと回転して、一定の周期でこちらにも光って見せた。ぼくはそれを撮った。何か意味があるわけではないだろう。ぼくは堤防に寝そべったまま、煙草を咥えてそれを撮ったのだ。もしまた機会があれば、そういった話をしながら、この写真を彼女に見せてやりたい。ねえ、おれは今猛烈に飢えているんだ。だからこの写真を見ろ、と。
そう、飢えている。今、歯を食いしばっているところだ。長い夜はまだ明けそうにもない。
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