2024/04/11

がらんどう

 ただいたずらに幾つかの文章の断片を書き連ねては、消した。それがぼくの中にきちんと根付いている考えなのか、あるいはただ、どこかで無意識のうちに仕入れた無数の情報が、たまたまランダムに配列されただけの、記号の集合にすぎないのか、それを判別することができない。自分の考えというものが、その枠組みが、いつの間にかぼくの中から失われてしまったのかもしれない。

 いや、失われたと信じたくはない。おそらくその抽斗はあまりに長いこと引き出されないままであったために、他の多くの要素の中に紛れて、きっと部屋の奥の方に追いやられてしまったに過ぎないはずだ。昔、それはもう十五年以上前に、頭の中に部屋があるという話を書いたことがった。その話の中で、ぼくの頭の中にいた女の子は、最後にスーツケースに荷物を全部詰め込んで、遂に部屋を出て行ってしまう。ぼくは上の文章を書きながら、その部屋のことを思い出した。そこにはきっと古い桐の抽斗があったはずだ。そして今でも、探せばきっと、部屋のどこかに抽斗が残っているに違いない。

 いずれにせよ、ぼくは新しい文章を書くことができなかった。

 四月に東京に住み始めた。厳密に言えば、三月三十日に越してきて、四月一日から、単身赴任が始まった。二週間が経とうとしているが、大変忙しい。

 できるだけ文章を書きたい。そして残したい。誰にも、何も伝えられないこの日々は、必ずぼくにとって重要な時間になるはずだが、同時に子どもたちにとっても役にたつことになるはずだ。今のうちに(抽斗がどこかにあるとまだ信じられているうちに)、考えていることを書き残したい。

 もう少しハイボールを飲んだら、寝よう。

2023/08/14

静物的なイマージュ(台風がやってくる)

 古い文庫本の茶色く焼けたページを見つめながら、川沿いの春の夕暮れに、ベンチに腰掛け、ぼんやりととりとめのない妄想に耽っていた。それは二十歳か二十一歳の春であった。湿った足元、地面には数日前に散って萎れた桜の花弁が無数に斑点模様をつくっていた。ぼろのサンダルの中で爪の伸びっぱなしの指を折ったり伸ばしたりしながら、兎に角、百年近く前に自死した男の書いた文章を読んでいたのであった。その文庫とて高校生の頃に名古屋は本山の古本屋で買った代物で、おそらく八十年代ごろのものであったろうか。今思えば、ぼくは無意識的にそういう死んだものに触れることで、どうにかして今の自分の正気を保とうとしていたのだろうと思う。
 その川は江ノ島の近くに流れ出ていた。いみじくも同じ川が舞台として、その小説の著者の別の作品に出てきたときには驚いた。そういう恣意性から遠くにある偶然の経験が、ぼくの考えを決定づける。逆に、予定された経験や、あるいはまったくの無思考の中にある経験みたいなものが、ぼくはこの頃から今までずっと嫌である。この自分の性質をぼくは気に入っているけれど、はっきり言って、生きづらい。(しかし人生とは生きづらいものだし、一切皆苦というのはぼくはしょっちゅう引用するけれど、つまりそういうことだと信じているので、少なくとも自分にとっては論理的に正当なのだ、これは蛇足であるが消さない)
 別の夏の夕暮れに、この川の河口付近で本を読んだこともあった。匂いを嗅ぎながら、海岸の音や気配に包まれて、ひとりで過ごした。


 ひとりで過ごす時間が多かったし、できるだけそういう時間を大切にした。それは大学時代のみならず、その前も、あともそうだったけれど、悲しいかな、家族ができるとそうもいかない。もっと努力をしなくちゃならない。

 ぼくは人はやはりひとりで生きるものだと思う。これは何も、人はひとりでは生きられないという使い古されたいわゆる常識に対する完全なアンチテーゼではない。ぼくは、ある意味では、やはり人には孤独的な”要素”が必要であろうと思う。そんなことをここ数か月考えていたような気がする。(いつもフワフワとしたガスのようなものが浮かんできては、忙しくしている間に消えて行ってしまうのだ)
 なぜか?それはやはり考えるためなんじゃないか?孤独でないと、常に人といると、深い思考はできない。すぐ上にも書いたように、考えるきっかけやヒントや発想に出会えたとしても、そこに他者とのコミュニケーションがある時点で(あるいはその瞬間に物理的にひとりであったとしても、他者とのコミュニケーションというものに習慣的に囲まれていたり、それが前提の思考である時点で)、具体的実存的存在としての自己の内面に深く抉るように潜るように思考することは、できないのだ。

 そう、ひとりの時間に、じっくりと自分の考えの階段を下りていくことがとても大事なのだと思う。一段一段確かめながら、真っ暗闇の中の螺旋階段を下りていく。音楽は聞こえているような気もするし、そうでない気もする。足の裏は硬い一段をとらえているような気もするし、わずか浮かんでいるような気もする。そういう行為がその人をつくるんじゃないか?


 それは名古屋駅近く、高層ビルの半地下にある純喫茶かもしれない。あるいは鎌倉に道に迷った先にあった謎のダイニングバーかもしれない。裏横浜のいつものロック・バーのヒゲのおじさんや、飲み友達の酒乱数学教師や、岐阜のメキシカンバルの靴屋芸術家や、元住吉の細くて背の高い女の子の家でユニフォームを脱ぎながらYUKIを聴いた夜かもしれないし、伏見稲荷をのぼっている最中に知り合った一橋の米留学生と、下山後に食べた親子丼かもしれない。肺を患って、携帯電話を使えるスペースまで管と機械を引きずって歩いて、痛みに耐えながら聞いた女の子の声かもしれないし、イギリスから一時帰国する便で眠れずに聴いたMP3プレーヤーのMEGARYUかもしれないし、京都の部屋で嗅いだいい匂いかもしれない。

 とにかく、淡くも鮮やかで、確かな画材で描かれた静物画的なイマージュが、ぼくを何とか生きながらえさせている。ぼくはいつも過去だと思う。今のぼくはただの、最新の過去に過ぎないのだ。ぼくはいつも過去にいる。そして過去の素晴らしい記憶の中で、こんな風に、時々酔っぱらいながら、意味のない文章を書いている。そうしてきっとすぐに四十になって、五十になって、どんどん訳が分からなくって、過去の中で死んでいくのだ。死んだときに(ぼくにとっては、考えつくしたときに)、はじめてぼくは動かぬ過去になる。完結した過去になる。もしかすると、それをどこか夢見て、ぼくは”今の過去”に執着しているのかもしれない。


 妻が子どもをふたり連れて今日明日と実家に帰っている。ぼくも行くつもりだったが、台風が来るので、自宅で仕事をすることにした。彼らは昼は鰻、夜はすき焼きを食べたそうだ。ぼくはひとり酒を飲んで音楽を聴いて文章を書いた。これでよいのだ。これがぼくにとっては何よりもの滋養なのである。悔しいからアイスも食べた。
 ぼくはひとりだと思う。思いたい。ひとりとしてのぼくがいるから、妻や子どもやいろんな人たちに、思いやりを持つことができるのだと思う。

 台風がやってくる。それは遥か南方からやってくるのだ。台風の生まれる海域ではどんな時間が流れているのだろうか?ぼくはモルディブで宿泊したヴィラのハンモックで揺れながらそんなことを考えた。つまり、人間のいない海原で、そこで自然はどんな形をしているのか?誰にも認識されない海上の中空は、いったいなんなんだ?不安とも高揚とも言えぬ妙な気分になった。そんな海域で人知れず生まれた台風はセンサーによって数値化された形でおそらく不本意にも事前に認識され、そしてぼくらのもとにやってくるのだ。

 台風がやってくる。もう少し酒を飲んで寝ようと思う。明日は電車も動かないらしい。

2022/08/17

自分自身について、自分と他者(社会)について

  会社勤めをしている中で感じるジレンマについて、ある日落ち着いて考えてみた。正しいかどうかは別にして、少なくとも今の自分にとっては腑に落ちる解釈に半ば至りつつあるようなので、覚えで書き留めておく。この考えを時間をかけてゆっくり深堀るには、最近の日々は忙しすぎるため。(とはいえ、今このタイミングを逃すと、途中まで進めた考えでも、今度続きを始めようとした時点では、もうまったく別の発想が出てきたりするかもしれない。むろんそういったことも念頭に置きながら、書き記す。)

 ここでいうジレンマとは、会社勤めをしているときのみならず、社会の中の自分という構図・立ち位置について考えるとき、時折直面するものである。すなわち、社会的正当性(正当ということが確からしいだろう性質)と、自分自身との間に生じる乖離感のようなもので、自分のポリシーとは一致しないが、しかし社会的存在としての自己を重んじれば、取らなければならない選択肢を選ぼうとしている瞬間などに、ぼくの眼前に、そのトゲトゲが現出する。

 で、結論から言えば、これはおそらく、自分の内面の整理と、自分と他者との関係性の整理とを考えたとき、それぞれを構成する要素がすべて一致しなければならないのではないか、というある種の強迫観念にとらわれるからではないか、と考える。

 つまり、自分自身の中で正しいと思われている様々な考え方(それは外面に表現するものもそうでないものも含め)が、他者(あるいは社会)と自分との関係性においても、必ずすべて同様に、正しいと評価されなければならない、と思い込んでしまっている、ということだ。普段、自分の頭でいろいろなことを考えているようで、ややもすると、あるいは上記のような状態に陥ってしまうようなことは、ぼくに限らず、多くの大人にとって屡々起こりうるのではないか。

 一方で、と、ここから、ぼくはその観念、焦りのようなものから抜け出すために一呼吸おいて、「自分の頭で」改めて考えようとした。こういうとき、頭を冷やして、数歩引いた距離から、自分を含む全体を眺めることが大切だ。もちろんこれは比喩で、例の自己の他者性の問題(自己を観察しようとしている主体もまた自己であり、完全な自己の客体化は実現しえない)を孕むわけだが、こういったケースにおいては、あくまで鳥瞰することを意識するということが肝要なので、そこまで厳密な定義は必要がないと考える。

 そう、それで何を考えたのか。

 話はきっと単純で、「いやいや、すべてが合一する必要はないよ」ということだ。寧ろ、自分の内面における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)と、自分と他者との関係における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)とは、多くの矛盾を抱えていても問題はないとも考える。

 そういった中で、両領域に幾つかの接点があり、それらの点の色合いが合一していれば、それで全く問題はないのだ。他者・社会は存続するのだし、その中若しくはその対岸に位置するぼく自身も、しっかりと存続していくのである。

 こんな具合で解釈すれば、無理なく自然な形で、自分についても、自分と他者との関係性についても、整理することができるように思われる。

 加えてさらに言えば、自分自身を整理すること、言い換えれば内省には、すでに前提として他者の存在があるということを忘れてはならない。人が利己的であることはごく自然なことであるが、利”己”という言葉がすでに、「他に対する己」という意味を持っている以上、すでに他者の存在を二項対立的に認めていることになるのだから。言いたいのは、先に述べた「自分の整理」というのは、その時点である意味他者との関係性を予言することを禁じ得ないということだ。

 これは一見すると(特に十代のころのぼくみたいな人間に言わせれば)、「迎合である」ように見られるかもしれないが、そうではなく、認識の正しい形での、誠意に満ちた精査であると考える。反対に、先の話に戻れば、自己と他者との完全な合一を信奉し志向することこそがまさに純粋なる迎合と言えまいか。その観点からすれば、自己という言葉が他者を内包しているという解釈は、寧ろ逆説的に(というべきか、構造的に、というべきか)自己の自己性を明示することに他ならない。

 以上のような解釈でもって、現時点では、自分自身について、自分と他者についてという問題に対するスタンスを取ろうと思う。

2021/06/24

しなやかに生きる

 もう一月もすれば三十になる。ぼくは忙しく働いている。文章を書かなくなった。
文章を書きたいという気持ちは、以前のように持ち続けているつもりだ。常に持っていると言ってもよいだろう。そしてときには筆をとろうとすることもある。けれども書かない。理由は、いくつか考えられるが、厳密には分からない。
 今夜は、会社を出るころから、帰ったら何か書こうと考えていて、珍しく実際に、こうしてキーボードを打つことができている。
 余裕があるというわけではない。むしろ逆で、いつにもまして忙しい一日であった。夜中三時に息子の咳で目を覚ましてからろくに寝付くことができず、居間のソファで朝を迎えた。いつもより早く出社をし、いつも通り遅くまで会社に居た。帰りにはいつも通り古い音楽を聴いた。それはいろんなことをぼくに思い出させるが、もしかすると、その記憶の色合いや意味合いが、少しずつ、かつてに比べて変わってきているのかもしれない。
 そう、余裕があるわけではない。肉じゃがを温めて食べたあと、明太子と竹輪を肴にビールを一缶あけた。風呂に浸かってシャワーを浴びて、髪を乾かしながら、明日の仕事のことを考えた。明日は在宅勤務だが、タスクは山積している。
 ともあれ居間に降りてくると、少し、文章を書き始めることを躊躇った。何しろ疲れているのだから、音楽を聴いたり、漫才の動画でも観ようかとも思ったが、やはりやめて、2缶目のビールを冷蔵庫から取り出して、ソファに腰かけた。昨日タオルケットにくるまって朝を迎えたのと同じソファだ。ラップトップを開いて、サインインをして、昔の記事を眺めながら缶のプルタブを引いた。そしてグラスに注いだ。泡の音がした。シャッターを閉めた居間、外の音もせず、結句音楽を流すわけでもなく、時計の秒針の音と、泡の音だけがした。そして「しなやかに生きる」と打つ間、少しずつ泡の上る音だけが小さくなって、時計の音は硬いままであった。

 しなやかになんか生きたくはないと思っていた。つまり、まあこれは言葉の定義の話でもあるから大した問題ではないが、むしろそのイメージについて、ある種の嫌悪感を持っていたことは確かだ。響きはよいが、つまりは、小器用に、無難に、角を丸めて暮らすということじゃないか、と。

 ぼくにとって人生は何なのか、と、年甲斐もなく今でも時々考える。そして考える途中で別のことをはじめてしまう。

 若いころ、二十歳あたりのころ、ぼくにとって人生とはきわめて単純なものであった。考えることが即ち人生であった。思考即人生、人生即思考、てな具合だ。もちろん思考の対象は複雑怪奇を極める場合もあったが、しかしそれでもやはり思考対象は単純化されるべきであるという信念があった(これは今もそう思っているけれど)し、したがってぼくにとってぼく自身という存在は容易に説明可能であり、その事実はまた至極当然のように思われた。

 考えることが重要である、という思いは、今でも持っている。これはおそらく、ぼくにとってのある種の宿痾なのだろうと思う。しかし一方では、それだけではうまくいかなくなってきた。なぜか。それは、考えることをやめなければ、どうにも立ち行かないような場合があるからだ。これは偏に、学生時代とは違い、今の自分が社会的諸関係の一部に成り下がった(という表現すら今やぼくにとってはむず痒い)からである。しかしそれは決して自分の意志と裏腹なものではなく、むしろある程度は、予期できていた状態でもある。こうなることは分かった上で、職業選択の自由を行使したのだ。

 且つまた、家庭を持ったことも、大きな変化であったはずだ。妻がいて、子どもがいる。要は、自分を差し置いて優先すべき対象がいるということである。二十歳のころ、「自身とそれ以外」という二元的な世界であったのが、それとは別の存在がそこに登場したのだ。「自身でもそれ以外でもない」ひとたちがそこにいる、あるいは生まれる。暗い部屋の隅で座り込んで長い長い長い時間をかけて考え、そして築いてきた二十歳のころの自己と他者の世界が、その巨大で壮美であったはずの絵画が、雷鳴とともにひび割れ、地響きの中に塗料は剥がれ落ち、そして崩壊したのだ。

 しかしこれはぼくにとって、幸せなのだろうと考える。考え抜いて苦しみぬいた最後に辿り着いたからこそ、それは幸せなのだ。

 今、ぼくは結果して、しなやかに生きようとしている。若かりしころよりも退屈な人間になってしまったのかもしれない。確かに、四六時中自己を誇ることはできなくなってしまった。しかし自分や、自分の周囲にいる大切な人々のため、そして翻っては自分自身のために、時や場所に応じては自分に弾力を持たせることも大事なのだ。

 若かりしころ…若かりしころのぼくには、弾力を自己に持たせるという発想はなかった。それは、滅私することと同義であった。なぜならば、二元的な世界にいたからだ。ぼくはその城の中を歩く靴音の反響を聞きながら、あるいは外からその壁を眺めながら、その美しい、見事な造形に酔いしれていた。それは見事な城であった。しかしだからこそ、その城を賛美するか、否定するか、そのいずれかにしか、結論を見出すことができないでいたのだ。

 当時の自分を否定するつもりは毛頭ない。否定するどころか、ぼくは今でもその聳える城壁を夢に見るのだ。そして目を覚まし、髭をそりながら、記憶を辿ってその土地まで歩んでいく。しかしそこにはもう城はない。その土地は今や、僅かな瓦礫が風に吹かれている、ただの城址に過ぎないのだ。ぼくはネクタイの結び目を絞りながら夏の暑い太陽を見上げる。然しぼくはしなやかに生きていくのだ!後ろめたさはない。

 それは見事な城であった。いずれ、その憧憬すらも抱けなくなるのかもしれない。だからこうして書くことには意味があるのだ。あるいは当時のぼくは、不健全であったのかもしれない。妻は二十一歳当時のぼくのことを、病的であったと振り返る。頬はこけて影が差し、目の周りはどうしてか黒ずんでいた。そうして森羅万象を語るさまは狂気的であったと言う。確かにそうであったのかもしれない。けれども、それは本当に美しい世界であったのだ。

 しなやかさと美しさは両立するのか。ぼくは両立すると信じている。この先時間をかけて、少しずつでも考え続けていくのだ。以前のようにはいかないだろう。脳みそは錆びつき、実際的な問題や関係性は手枷足枷に他ならない。けれども藻掻きながらも、やはり思考をやめてはいけない。止める瞬間があったとて、それは思考の末の無思考でなければならない。無思考を習慣にしてはならない。そうして努めて意識することが、きっとぼくの人生を長く続けていく意味にもなるはずだ。老いた先に、去り行く古城の記憶を遠くに見据え、新たなる城を見出すことができるはずだ。

 今でこそ蜃気楼のように映る、まだ見ぬ城を目指して、時折こうして、青春を振り返ろう。しなやかな日々の中で。

 

2020/05/11

春の実感

 在宅勤務が続く。分厚く塗りたくった真っ青の油絵のような空模様はまるで夏を急いでいるかのようで、ぼくはもう先週末から半袖で、東京じゃ30度を記録したらしい。窓の外では緑の木々がその豊かな葉を揚々と揺らしている。風は甘く香るほどに穏やかで、緊急事態宣言を受けて不思議なほどに閑散とした街並みは心を落ち着かせてくれる。

 病はよくわからないままにぼくの身体から去りつつある。体重は結局8キロ減少したまま戻らない。妻は、元気になったら戻るものだと思っていたと言った。おそらく、在宅勤務のせいで夕食を早い時間にとれるようになったこと、食事の量が以前よりも減ったこと(多く食べない期間が長くなったことで胃袋が縮んだのかもしれない)、そして何より酒をほとんど飲まなくなったことがその理由であると思う。

 とにかくぼくは大学を卒業して以来5年かけて着実に身につけてきた体重をほろんどすっかり落としきってしまった。

 酒は3日にいっぺん、ビールかハイボールを一杯飲むかどうかという程度までに減った。従前は週末になれば大酒を飲んでいたが、その習慣も失われた。実は恢復したあかつきにはきっと心ゆくまで大酒をあおってやろうと気張っていたのだけれど、いざ酒を飲んでみると、それ以上にほとんど欲さなくなってしまっていたのだ。すこし寂しい気持ちである。

 最近はハウスメーカーとやりとりをしている。家を建てるつもりだ。酒を飲まなくなったことは、つまりぼくから金のかかる趣味が失われたことを意味する。家を建てようとするのなら、まあ好都合と言えるだろう。妻も必要以上の贅沢を好まない人なので、ぼくらの健全な生活は比較的、持続可能的なものであると言える。

 横浜駅の東口を出て少し歩くと郵便局があって、それを横目にもう少し暗がりに向かって歩いて行くと、三角地に古い二階建ての建物がある。裏手に回るとロック・バーが構えている。その店を出て、桜木町まで歩いたことがある。深夜だった。電車がなかったから、仕方なくぼくはその女性と歩いた。真夜中、季節は夏の終わりだったと思う。じめじめしていたと思う。首都高を見下ろしたことを覚えている。酒の回った目を細めると、ヘッドライトが糸を引いて美しかった。横浜美術館の正面は広くひらけた土地で、深夜そこに居ることは、とても妙な感覚を齎した。濃い藍色をした、密度の高い暗闇が、沈黙を条件に鎮座していた。ぼくらは美術館の正面玄関の目の前に立ち、振り返って、その暗闇と対峙した。どんな話をしたのかはあまり覚えていない。当時のぼくのことだから、小難しい話をしたんだろうと思う。音楽や文学の話、女性の話や人間の話を。
 しばらく暗闇を前にたじろいで、それからまた、港に向けて歩みを進めた。夜はいつまでも続くように感じられた。公園の芝に仰向けに寝転んだ。隣に女性も寝転んだ。ランドマークタワーが高くそびえていた。少し視線を落とすと、こと切れた観覧車が夜の門番を務めていた。横浜が夜の最も深い場所を、あたかも秘密作戦を遂行しようとしている潜水艇のように、静かに振動しながら、ゆっくりと動いていた。ぼくは少し汗ばんでいた。シャツの背中の向こうに芝の感覚を感じた。彼女がぽつりと呟いた。それはもちろん愛を意味する言葉ではなかったが、その音には愛を感じられた。時折高級車が視界の外で車輪の音を滑らせたが、たしかにその世界にはぼくと彼女しか存在していないようであった。ぼくはこの夜のことをよく覚えている。

 どうして春のこの日にそんなことを思い出したのだろう。

2020/03/22

病床にて

2月末に体調を崩し、一週間余りを療養に費やした。ほとんど完治が見えて職場に復帰し、一週間務めた週末、土曜の朝に、原因の分からない発熱がおこった。

それから早一週間が経ったが、原因はまだ分からない。毎日のように医者にかかり、痛い検査も繰り返したが、それでも分からない。放っておくと常に39度以上の熱が続いてしまう。原因が分からず対処法も分からないので、医者の指示通り、解熱剤を継続的に服用しながらどうにか高熱の時間をできるだけ短く抑えている。熱の下がっている間は体調はそれほど悪くない。むしろ散歩に出かけるくらいには元気である。しかし今度は、解熱剤の副作用か、口内におびただしい数の口内炎ができた。これはなかなか難儀である。食欲があるのに食べられず、話したいことも口をつかない。おまけに咽頭がずいぶんと腫れてきて、食事はおろか水分をとることにさえ苦痛が伴うようになってきた。

何しろ、この一ヶ月近くでぼくの体重は6kg以上落ちた。妻は体型だけで言えば今の方が理想的だと元気付けてくれた。

妻と子が元気であることが唯一の救いである。妻には本当に苦労をかけてしまっているから、必ずこの原因不明の病を治して、恩返しをしようと考えている。

入院には及ばないということで(まあそれはおそらく入院をしたところで原因が分からないのだから手の施しようもないということだろう)、ここのところは人生の大半の時間を自宅で、それもそのうちの半分以上を寝室のベッドの上で過ごしている。夜中から明け方にかけて体温が上がる。この間ぼくは何度か眼を覚ますことになる。はじめのうちこそこんなものかとやり過ごしていたが、長く続くと気が滅入る。ぼうっと熱を持った頭の中には夢とも妄想とも見分けがつかない、不可思議なイメージが繰り返し映し出される。

今日になってこんな文章を書こうと思ったのは、昼間、妻があまりに退屈そうで憂鬱そうなぼくを見かねてか、iPadを寝室まで持って来てくれたからだ。こんな機会滅多にないので、せっかくだから文章に残そうというわけだ。絶筆になるのではないかなどという嫌な感覚も一瞬頭をよぎったが、これを遺書のようなものにするつもりはない。ぼくは死なない。まだ死ぬわけにはいかないのである。どれだけの時間がかかってもこの病を完全に克服し、ぼくのために笑ってくれる人たちのために生き続けなければならないのだ。

あるいは、この熱源が分からない今の断面で上のようなことを書くのは大げさかもしれない。けれどもぼくはいま本当にそういう気持ちである。昨日、晴れた昼過ぎのウッドデッキで、庭を見ながらウクレレを弾いた。すると涙が流れてきた。ああ、ぼくはついに自分の命を、家族のために守りたいと思えるようになったのだと思った。ぼくは泣きながら何曲かを弾いた。黄色い蝶が柔らかい風に乗って飛んでいた。


2019/03/08

溢れそうなので掬い上げてどうにか文章を書いた

 春の手前にはやはりどうにもしがたい苦しみが訪れる。それはかつては、この目で見えていたはずの春霞だ。薄情なまでに均一に青く染まった明け方の空の上から滲み出るように、或いは朝ぼらけの奥に張り付く山々の稜線を向こう側から越えて…表現はどうとでもできるが、感覚そのものは変容しようもない、今やぼくの両目では捉えることができなくなってしまった種類の春のぼんやりとした霞が、しかし確かに事物としてぼく自身を覆い隠してしまおうとしている。―祖母はある人が死ぬと「お隠れになった」という表現をするが、ぼくはこれが好きだ。
 そして、おそらく、この苦しみをさえ、ぼくは愛している。妙に気味の悪い悲しみ―誰も知らない山の奥にひっそりと湛える池には、大きな葉が一枚浮いている。深い緑の葉だ。中空からそれを眺めれば、実に無慈悲で、どうにも不条理なほどに硬質な濃い色合いや表面をしている。しかしひとたび水中から見上げるようにそれを見つめれば、葉の裏は繊細で美しく、淡く穏やかな様子なのだ。たいていの人には、水中からそれを見ようという発想ができないし、仮にできたとて、試そうとする人もいない。そして偶然、水中から一度それを捉えることができた人でさえも、気を抜くとすぐにその感動を忘れてしまう。たいていは二度と、運がよくとも長い時間、それを思い出すことはできないのだろう。
 ぼくが抱えている悲しみは、そういう悲しみであり、ぼくが感じている苦しみは、まさにそういった苦しみである。



 昨晩、息子が産まれた。ぼくは父親になった。



 ようやく少し落ち着いた。母子とも健康、順調な出産だったが、それはもう一大事であるので、大変な騒ぎであった。はじめから立ち会うことができたのは素晴らしいことだった。その後両家の対応に奔走し、できる限りのサポートをしたつもりだ。今夜は自宅に戻り休息をとり、明日はまた病院に泊まることにしている。それを望んでくれているし、ぼくも今のうちに、学んでおかなければならないからだ。

 そう、ようやく落ち着いて、風呂に浸かり、慣れ親しんだレコードをかけて、およそ三週間ぶりにビールを飲み(先日風呂で思い起こせば、どうやらこれは十九の頃からして、これまでの人生で最も長い期間に及んだ断酒だ)、そうしてやっと、じんわりと実感めいたものが沸き上がってきたのは、この文章を書き始めてからだ。

 悟りきったようなことは書けない。こういう比喩はあまり好きではないが、それなりの望遠鏡を覗けば、それなりの星々の姿を捉えることができる。そしてそのうちの幾つかが、悟りきったような事実に見える。けれどそれは、そう見えるだけなのだ。それだけは分かる。まあこれだって、ある種の悟りきったような話なわけだけれど。

 いずれにしても、確かな事実は、ぼくが、12の頃衝撃的な恋心を抱いた相手との間に子を授かり、父親になったということだ。



 ぼくが今夜この文章を書いているのには二つのきっかけがある。ひとつは、この感覚を記録しておきたいというぼくの欲望。それからもう一つは、文章を書かずにはいられないというぼくの中の衝動だ。

 長らくぼくは、文章を書いてきた。もっとも、四年近く前に社会人になってからは機会が減ってしまったが、それまでのぼくの生活において、周りの人に比べて際立って多く与えられたのは時間であった。もちろんその原因のひとつにはぼく自身の選択の傾向もあったが、結果して潤沢な時間はぼくにいろんな思いを巡らせるためのチャンスを与えてくれたし、少なからず考えたこと、見つけたこと、苦しんだことを書き留めることにも影響したはずだ。

 そう、そう。考えたことを書き留める。そういった行為がぼくの中には常にあった。十三のころに始めたことだ。それは意識的に始めたわけではなかったはずだ。

 数えきれないほど多く書いてきているが、ぼくは考えることを大切にしてきた。考えることが何よりも大事であるというのが信条であった。もう、これは、ある種の疾病である。認めよう。けれども、それがぼくにとっての正しさであり、何よりもの誠意なのだ。自分にとって誠実であろうとすれば、ぼくは考えることに至る。
 これからもそうやって生きていくのだろうと思う。どんなことがあっても、考えることはやめない。むろん、世の中で生きていくには、考えることを避けなければならない場面もある。外的な要因によって、チープな不条理さによって、考えていては狂ってしまいそうな局面がある。これは偏に、世の中には驚くほど多くの阿呆がいるからだ。けれどもそれを嘆いている術はない。そういうときは潔くスイッチを切るのだ。ただし、愛する人たちや、自分自身の大切な部分について、考えることは決して止めない。たとい考えることで痛みを伴うような場合でも、深い傷を覚悟しなければならなかったとしても、ぼくは考えることを信じている。疑り深い性分のぼくが唯一信頼しているのは、考えることだ。考え抜くことは、ぼくにとっては大切なことなんだ。



 この文章を、ぼくはゆっくり書いている。夜が深まる。ビールは気づけば四本空いたし、これからウイスキーにも手を伸ばす。音楽は驚くほどにソリッドに聞こえる。正しいことだろうと思う。



 春の悲しみは心地よくさえもある。遠浅の海面に仰向けに浮かんで目を閉じれば、その豊かなる悲しみは次第にぼく自身に染み込んでいく。ぼくはそんなさなか、子を授かったというわけだ。得も言われぬ感動に―それは感動でさえなかったのかもしれないが、打ちひしがれたぼくは、なんとも情けない姿だったことだろう。

 ぼくはこれからも考える。肩書や外見は変わっても、考え続けることだけはあきらめない。父になろうと、年を取ろうと、ぼくはぼくとして、考え続け、考え抜いて、ぼく自身を全うするんだ。そう決めている。



 そろそろ眠ろう。



 さいごに。
 我が子よ、おめでとう。愛しているよ。