昼過ぎに少しだけ雪が降った。先週借りたDVDを返しに出た帰り、本屋に寄ると窓越しに降るのが見えた。水気の感じられない、散り散りにされた羽のような雪は、風のない今日の大気の中、十分な時間をかけて舞って落ちた。ぼくは車に戻ってエンジンをかけ、少しの間、サイモンとガーファンクルを聴きながら、それらのトラックにまつわる自分の記憶を、ほとんど無意識のうちに辿っていた。冬にうってつけの音楽だ。
車を買った。
時間は過ぎていく。オブラディ・オブラダ。
*
小説を書こうと決めた。理由はいくつかあると思うのだけれど、それをわざわざリストアップしたことが無いから、いくつあるのかは分からない。ただ、十二月、名古屋駅を一人で歩いていて、思い立ったのだった。今なら書けるんじゃないだろうか。雑踏を見ながらそう思ったのだ。
しかし問題がある、ぼくはビートルズを聴き始めて十年以上になるのだけれど、それと同じくらい、ずっと前から小説を書きたいと思い続けていて、それでいてまともなものは一つも書けたためしがないのだ。
今度も同じだった。断片的な文章がいくつも出来上がった。何人もの女の子が出て来て、何人ものアーティストの音楽を聴いていた。鉛筆で書いたものは雨で濡れてふやけてしまったし、スマートフォンで打ち込んだものは、SNSの下書きに保存されたまま読み返されることさえなかった。ぼくは混乱し続けているのだった。やるせない気持ちはもう、十何年来ぼくのへその辺りに堆積し続けて決して排泄されようとしなかった。酒を飲んでもセックスをしても飽きるほど寝ても痩せるまで風呂に浸かっても一緒であった。
*
コーヒーを飲み終えてしまった。ここから出なくちゃならない。ぼくにはもう何も書けないのだろうか?それは恐怖であった。もうずっと、書くことに依存してきたし、書くことでぼくは成り立っていたのだから。書けないとするならば、今のぼくはいったい何者なんだろうか。自分でさえ分からないのだ。散漫なアイデアが良くない風向きで行ったり来たりしている。雑多な紙切れがノイズみたいに駅前のロータリーをランダムに撫でている。ぼくは文章を書きながら苛立つようになってしまった。白髪の老人が憂鬱な目で週刊誌を見つめている。
2016/01/23
2015/08/04
熱帯夜の曳航
大学を卒業して会社員になってから、4ヶ月余が経過した。本も読むことも映画を観ることも、凡そ音楽を聴くことさえも止め、ここのところ日々を過ごしている。無論文章を書くことも無い。以前のような考え事に苛まれることもない…苛まれる、という表現をしてしまうあたり、あたかもぼくは駄目になってしまったようではないか。こう、文字を打ち出してみても空咳のように頼りなく、頭に塵の冠ったようなぼんやりとした心持だ。それでも毎日は過ぎていくし、確かにぼくはキャリアを積み上げている。この乖離感、即ち自分の中に感じられる妙な空しさと、一方で周りから受ける叱咤や礼讃なぞとの間に横たわる、抗い難きズレが、ぼくを捉えている。
ぼくはかつて学生であり、そうして今は会社員である。しかし、思うに、本質的にこの両者には違いがないように思われる。生活習慣にはかくも大きな隔たりがあるにも関わらずである。
ただ、唯一挙げるとすれば、社会人として、ぼくはある程度重層的である必要があるだろう。これまでのように通り一遍の在り方では駄目だ。
ある一面では(社内にあって主で)情熱的であり、また一面では(社内であっても場合に依っては)鳥瞰的である必要がある。二面では事足りない。そのバランスの中で揺蕩うようなイメージが求められるように感じる。ぼくはデスクの付箋を眺めながら、そう考えていた。
できるだけ本は読み続けたい。暑い日が続く。
2015/03/18
ジレンマ
夕方、春の雨が降った。午前中は五月のように暖かく晴れて、カットソー一枚で犬と遊んだ。スーツを新調して春の私服を贖った。途中喫茶店でマンゴーティを飲みながらビートルズを聴いた。それから靴をもう、履き潰してしまったので新しくした。同じような靴だ、もう四つも似たようなものを履いている。ある女性が、ぼくを頭から順に下を見ると、裾までは文句なしだが、足元だけが撚れているとため息をついたことがあった。ぼくはそれでいいのだと言った。靴は撚れていた方がいいのだ、特に皮の物であれば尚更である。きれいな道ばかり歩いていては面白くない。ぼくは革靴で野球だってするし、山だって登る。さらに言えば、靴は幾つも持たない方がいい。足元の力学的なバランスは思っているよりもずっと繊細な塩梅で決定づけられ、思っているよりもずっとその人自身にとって重要であると、スポーツ工学を学ぶ後輩が言っていた。彼はぼくのスローイングフォームを褒めた。
卒業が決まった。一週間ほど前の話だ。おとといには配属先が決まった。まずまずだ。あたかも順調にぼくの人生が流れていく。
帰ると弟も帰宅していた。春らしく、ぼくらは黙りこくった。バナナをかじるぼくの横で弟はギターを弾いていた。傍らにはスケッチブックがあった。部屋の中のあらゆる部分が美しい筆致で描かれていた。ぼくはそれを眺めながら二本目のバナナを食べた。
無数のジレンマが絡み合うことでぼくは構成されているようだ。それは不治の病のように、あるいは先天性の青あざのようにぼくの根っこを染めているようだ。ジレンマのイメージは多義的である。もっともシンプルな考え方をすれば、それは相反する二つの要素がせめぎ合う様子を指すだろう。しかしこれは単位に過ぎない。幾つものそれが合わさって、もはやそれは解くことのできない複合的なものになっている。これもまた一つのジレンマである。あるいは、こういった状態をどの場所にたって観測するのかによっても、べつべつのジレンマが存在しうるものである。このように、遂には元来そこにある本質的なジレンマ(概念においてさえ二次的ないしは原始的なジレンマ)に至って、
卒業が決まった。一週間ほど前の話だ。おとといには配属先が決まった。まずまずだ。あたかも順調にぼくの人生が流れていく。
帰ると弟も帰宅していた。春らしく、ぼくらは黙りこくった。バナナをかじるぼくの横で弟はギターを弾いていた。傍らにはスケッチブックがあった。部屋の中のあらゆる部分が美しい筆致で描かれていた。ぼくはそれを眺めながら二本目のバナナを食べた。
無数のジレンマが絡み合うことでぼくは構成されているようだ。それは不治の病のように、あるいは先天性の青あざのようにぼくの根っこを染めているようだ。ジレンマのイメージは多義的である。もっともシンプルな考え方をすれば、それは相反する二つの要素がせめぎ合う様子を指すだろう。しかしこれは単位に過ぎない。幾つものそれが合わさって、もはやそれは解くことのできない複合的なものになっている。これもまた一つのジレンマである。あるいは、こういった状態をどの場所にたって観測するのかによっても、べつべつのジレンマが存在しうるものである。このように、遂には元来そこにある本質的なジレンマ(概念においてさえ二次的ないしは原始的なジレンマ)に至って、
2014/12/16
ダム湖の底で暮らしている
時間はあっという間に過ぎていくのか、或いは全く移ろわずにそこにあり続けるのか、そういったことについて考えることはやめたい。時間なぞには縛られたくない。一昨晩、大会での優勝を祝う宴会の席で、久しぶりに随分と酔っ払って、その勢いで後輩に息巻いた。「そのときにしかできないことなんて、ない。」と。
ぼくはしかし、最近ではそのように思っている。例えば「学生のうちにしかできないこと」なんてのは、実際はない。一般的に言って、それは或いは各国を行脚することで会ったり、合コンに明け暮れる日々であったり、或いは学業に打ち込むことであったりするのだろう。けれどもね、ぼくは、そんなことは学生でなくともできることだと思う。たしかに、会社に勤め、平均的な社会人としての暮らしの中に、そういった上に挙げたような要素は含まれないだろう。しかし会社員にならなければ各国を行脚することは可能だし、仮になったとて、仕事もほどほどに合コンを繰り返すことは決して不可能なことではないのだ。「学生でなければ」という条件の中に、彼らの言説においては、既に「平均的社会人とすれば」や、或いは「保身を考えれば」といった下らない枷が付け加えられているのである。はっきり言ってね、本当に打ち込みたいことがあるのなら、就職なんてしなければいいのだ、これは進学についてもほとんど同じことが言える。
*
ところでぼくは何故働くのか。まだそれは分からない。どうして就職活動を選んだのか、それは分かっている。親へ感謝をしたいという気持と、ほかにするべきことが思い浮かばなかったということである。誰の所為にするつもりもない、これはぼくの人間性の問題である。無論人間性を環境や時代の所為にもしない。ぼく自身の問題なのだ、それが正しいか正しくないか、について語るには足らない。強いてその二元論に添わせるのであれば(つまり正しくあろうとすることはいつでも正しいことである)、それがぼくにとって自然であるという意味においては、正しいだろう。そう思ったからこそ、つまり、ぼくがぼくとして自然な振る舞いをする上で、就職活動を選択することに正しさを見出したからこそ、ぼくは幾度もの面接をこなしたのであった。
*
経験に意味はない。しかし、経験に至るまでの認識と、経験のあとにある認識との中には、場合によっては大きな意味が齎される。つまり経験はある限定された場所においてのみ、媒体としての役割を果たす。経験そのものに意味があるわけでは決してない。その裏にある認識にこそ意味が孕まれ得るというだけの話だ。
その意味においてぼくは社会に出るのだろう。とすれば、今の段階での、ぼくの働く理由とはそこにあるのかもしれない。勿論それが本質的かつ普遍的にどこに依拠しているのかについて、ぼくはまだ知る由もない。或いは永遠に知り得ないかもしれない。けれどもそれに関してぼくは拘泥する必要が無い。今のぼくには関係づけの不必要な部分だからだ。
認識だ、認識だ。あらゆる行動に認識が裏付けらるるべきだ。ぼくはそう思っている。もうじき卒業を迎えようとしている段にいてなお、そんなふうに考えているのだから、ぼくは本当は愚かなのだろうと思う。ぼくは一等愚かである。死への憧憬さえ理解できる、そういった愚かさはどうなのだろうね。冬が深くつみあがる季節に、白い太陽が浮沈する時間に、やりきれない気持は毛布の中で成長するのだろうね。
2014/10/30
病と魚と粥
肺に穴の空いた話をもう少し具に書こうと思ったけれど、ぼくにはどうしてもそれができなかった。理由は分からないが、数行書くともう、駄目だった。ぼくはすっかり暗闇に紛れ込んでしまっていて、そこから闇雲に手を伸ばしても、言葉を拾うことはできなかった。
どうしようもない恐怖が冷気のように床を伝ってぼくのところにやってきた。玄関からゆっくりと流れてきたそれは、ぼくの足を、腿を、腰を、背を、首を冷やしながら、最後には身体中をすっかり冷たくしてしまった。音楽は遠のいた、鼓膜が強張る感覚、ぼくはどうにも肌に触れたいと思った。見境なく千切ってしまいそうな気がした。衣服を剥ぎ、皮膚を剥ぎ、骨肉を粗方触り果てて、ようやく眠りにつけるような気持がした。恐怖を恐怖によって掻き消そうという作用だったのかもしれない。ぼくの異様な憂鬱は、確かにぼく自身に因るものであった。ほかの誰も、何も、悪くはない。何故ならば、なるほど実際、ぼくは生きている限りあらゆる環境要素と関わりあって暮らさざるを得ないところにあれど、しかし結局のところ、自分の振る舞いそのものを最後に決めるのはほかでもないぼく自身であったからだ。ぼくが選んでいるのだから、すべての現象は、ぼくの周りに起こるすべての現象は、ぼくに責任があるのだった。仕方ないことだ。抗いようのない大きな力を感じる、ぼくはそれに覆われるのをじっと待つことしかできない。恐ろしいことだ、分かるだろうか?得体の知れない、大きな、大きな、気が遠くなるほど、ぼくらの想像の範疇からはまったく把握の仕様もない、それは大きな真っ黒のヴェールが―材質も特性も時間も分からないヴェールが―ゆっくりと向こう側からやってくるのだ。冷気を送り込んだ風上にわずかそのヴェールが見えるのは、橙の微光が後ろから照らしているからであった。じれったいほどに、それこそ永遠と思えるような時間をかけてじりじりとぼくの身に近づいてくるヴェールは、やがてぼくの身を完全に覆い尽くしてしまう。そこには過去のみが渦巻くだろう。純然たる罪悪を丹念に濾過した重油のようなエッセンスが、ぼくの全身に泥沼のようにまとわりついてくる。
毛布のように、ヴェールにくるまり外界とまるで隔絶されたぼくには、もう何もない。これはパラドクスだ、孤独を望んだがために、ぼくは孤独を失うのだ。そうして同時に、孤独を手に入れた。女の言葉が蘇る。ぼくは吐いた、胃が躍り、食道が震え、彼女らによって植え付けられた罪の意識を吐いた。大昔の幾つもの匂いが吐瀉物を形成していた。ぼくはもう駄目かもしれない、あまりに消耗され過ぎた。彼女らに対して、正しい認識を求めるのは不毛ならずも罪悪だ。彼女らはまったく何も認識してはならないのかもしれない。つまり、はじめから黙っていればいいのだ、しかしそこまで門戸を開いてみても、その程度に利口なのも居やしない。ぼくはどこで間違ったのだろうね。全く駄目だ。
毛布のように、ヴェールにくるまり外界とまるで隔絶されたぼくには、もう何もない。これはパラドクスだ、孤独を望んだがために、ぼくは孤独を失うのだ。そうして同時に、孤独を手に入れた。女の言葉が蘇る。ぼくは吐いた、胃が躍り、食道が震え、彼女らによって植え付けられた罪の意識を吐いた。大昔の幾つもの匂いが吐瀉物を形成していた。ぼくはもう駄目かもしれない、あまりに消耗され過ぎた。彼女らに対して、正しい認識を求めるのは不毛ならずも罪悪だ。彼女らはまったく何も認識してはならないのかもしれない。つまり、はじめから黙っていればいいのだ、しかしそこまで門戸を開いてみても、その程度に利口なのも居やしない。ぼくはどこで間違ったのだろうね。全く駄目だ。
2014/10/17
『すごく面白い話』
ふと、言葉の出なくなることがある。それはいろんな場面で、たとえば大学の仲間と一緒に部屋で暇を潰しているとき、女の子と飲んでいるとき、ひとりで文章を書こうとするとき、音楽を聴いているとき、髭を剃っているとき。
普段、言葉は湧き上がってくる。湧昇してくるものを金魚すくいの要領で拾い上げることもあれば、底に滞留しているものを腕を浸して引っ張り上げることもある。少なくともそこには無意識の領域があって、そこにおいては不可侵だ、そのもう少しこちら側にぼくの領域がある。
言葉の出なくなる瞬間、その流れが止まる、或いは、温泉のような湧出は、地下深くの水路の微妙なずれか何かで、埋まってしまう。つまりぼくには、あらゆる言葉の価値がとても虚ろに見えてしまうのである。何を言っても、或いは、何を言わなくても、全ての流れは失われたままのような気がしてくるのだ。
その間―つまり言葉の出ない間、ないしは、その澱み―つまり流れのない状態、において、ぼくは黙るしかない。言葉はどれも同じに見える。どう選り好みをしたって、結局のところ事態は動きそうにない。もちろん普段だって、何か事態を恣意的に動かすために言葉を選び発しているわけではないけれど、いずれにしても、言葉によって何かが変わっていることは確かだ。それを物理的かそうでないかと吟味することには意味がないにしろ、である。
言葉だけならばまだよい。しかしこういった塩梅の時、ぼくにとっては大抵、あらゆる表象が同一の作用を来す。あらゆる表象、あらゆる芸術が、ひいては音楽も絵画も、ジェスチュアも表情も、スキャットもダンスも、言葉と一緒にうずたかい塵泥に沈み込んでいく。うずたかい塵泥は死んだ言葉の墓のようにシンボリックだ、死んだ言葉というのが正しい表現なのかどうかも分からない。或いは言葉の死んだ墓なのかもしれない、墓の言葉の死なのかもしれない。死んだ言葉とはなんだ?それでは生きている言葉とはなんだ?死んだ人間に生きた言葉は表現できるのか?こういった具合だ、言葉は泡のように頼りない。
言葉は無力だ。しかし言葉に足る何かがぼくらに備わっているのか?言葉は無力であるが上に美しい。少しずつ力を失っていく様子もはかなくて美しい。記号という枠組みを超える瞬間もある。言葉が言葉を生むこともある。文字にした途端に印象の変わるものもある。ぼくが愛していると言えば、その言葉は順列組合せみたいに乱舞しながら中空を彷徨い、彼女や、髭のマスターや、隣のテーブルの女子大生たちに吸収される。或いは鳴りやまないカントリーロックが覆いかぶさって隠してしまうかもしれない。言葉はこれだからやめられない。言葉はこれだから脱け出せない。ああ、ぼくは言葉が欲しい。言葉の先端に火を灯して、吸い込んで、肺のフィルターに滲まなかったものだけを、したり顔で吐き出せばよい。
普段、言葉は湧き上がってくる。湧昇してくるものを金魚すくいの要領で拾い上げることもあれば、底に滞留しているものを腕を浸して引っ張り上げることもある。少なくともそこには無意識の領域があって、そこにおいては不可侵だ、そのもう少しこちら側にぼくの領域がある。
言葉の出なくなる瞬間、その流れが止まる、或いは、温泉のような湧出は、地下深くの水路の微妙なずれか何かで、埋まってしまう。つまりぼくには、あらゆる言葉の価値がとても虚ろに見えてしまうのである。何を言っても、或いは、何を言わなくても、全ての流れは失われたままのような気がしてくるのだ。
その間―つまり言葉の出ない間、ないしは、その澱み―つまり流れのない状態、において、ぼくは黙るしかない。言葉はどれも同じに見える。どう選り好みをしたって、結局のところ事態は動きそうにない。もちろん普段だって、何か事態を恣意的に動かすために言葉を選び発しているわけではないけれど、いずれにしても、言葉によって何かが変わっていることは確かだ。それを物理的かそうでないかと吟味することには意味がないにしろ、である。
言葉だけならばまだよい。しかしこういった塩梅の時、ぼくにとっては大抵、あらゆる表象が同一の作用を来す。あらゆる表象、あらゆる芸術が、ひいては音楽も絵画も、ジェスチュアも表情も、スキャットもダンスも、言葉と一緒にうずたかい塵泥に沈み込んでいく。うずたかい塵泥は死んだ言葉の墓のようにシンボリックだ、死んだ言葉というのが正しい表現なのかどうかも分からない。或いは言葉の死んだ墓なのかもしれない、墓の言葉の死なのかもしれない。死んだ言葉とはなんだ?それでは生きている言葉とはなんだ?死んだ人間に生きた言葉は表現できるのか?こういった具合だ、言葉は泡のように頼りない。
言葉は無力だ。しかし言葉に足る何かがぼくらに備わっているのか?言葉は無力であるが上に美しい。少しずつ力を失っていく様子もはかなくて美しい。記号という枠組みを超える瞬間もある。言葉が言葉を生むこともある。文字にした途端に印象の変わるものもある。ぼくが愛していると言えば、その言葉は順列組合せみたいに乱舞しながら中空を彷徨い、彼女や、髭のマスターや、隣のテーブルの女子大生たちに吸収される。或いは鳴りやまないカントリーロックが覆いかぶさって隠してしまうかもしれない。言葉はこれだからやめられない。言葉はこれだから脱け出せない。ああ、ぼくは言葉が欲しい。言葉の先端に火を灯して、吸い込んで、肺のフィルターに滲まなかったものだけを、したり顔で吐き出せばよい。
2014/10/16
カレイドスコープ
左耳の奥が疼いて目を覚ました。時計を見やれば午前三時、脈を打つのが耳の奥で聞こえる。それはビートのようだ。先日観たダンス・ショーのステージを思い出させる。毛布を抜け出すとぼくはよろめきながら立ち上がり、冷蔵庫のミネラル・ウォーターを勢いよく飲み込んだ。変わらず部屋は暗闇、微かに漏れ入る街灯の明かりが、何も無い部屋と、昨晩脱ぎ捨てられてそのままのジャケットを映している。トラウザーズは?…足元にあった。シャツや下着は洗濯機に、ネクタイとベルトは廊下に放られている。
身体が熱を帯びている。レコードプレイヤーの上に残された赤ワインを飲んだ。グラスを濯いでキッチンに戻した。プレイヤーのスイッチを押せばマーヴィン・ゲイ、昨晩繰り返し聴いていた。左耳の鼓動はまさにこれだ。痛みは鼓膜の奥から感じられた。キャンディーチーズの袋を冷蔵庫に戻して、ジャケットとトラウザーズとをクローゼットに戻した。一転肌寒さを覚え、パーカーを羽織った。一体どうなっているというのだろう。LPのノイズが苛立たしい…昨晩のことを思い出している、艶めかしい匂いがシャワーのように降っていた。見るからに粘度の高い音楽が冷気のように地面をゆっくりと這って、ぼくの足首をまとって籠絡した。美しさとは何か?眉のピアスがぼくに尋ねた。一方で、快楽とは何か?蒼い首筋がぼくに尋ねた。ぼくは靴のくすみを気にしながら丁寧に彼女らの輪郭に耳を澄ました…耳を!バターナイフで皮脂を絡め取り、薄切りのトーストに塗りつける。ショートブレッドの欠片はフロアリングに沈み込み、朝のコーヒーはすっかり冷めてしまった。何故ならそれは夜だ、ぼくは耳のことを考えた。彼女らの渦のような耳を、それは醜い、裏を捲れば残らず真赤に爛れていたからだ。もう遅いのだ、熟れたトマトのような耳の無数を毟り取ってダム湖に沈めた。赤茶けた山稜の向こうから空が浮かび上がって、大きな鳥が越えていった。イメージは山奥からダムを滑り落ち、天竜川を下って静岡の海に流れ出でる。しかしそこで終わりだ。また都会に戻る…爛れた耳は沈んだ、残っているのは無機的な身体だけだ、それはテンポラリーで、模倣的で、甘美で、仮初の、エロティシズム、乱舞する色とりどりの光線が明滅を繰り返して鼓舞した。腐臭と快楽は紙一重のところにある。たとえばぼくには、そう、たとえばぼくには、この腐った夜、耳の奥の疼く夜、こういった夜が身を打ち震わせるほどに快い。
そう、たとえばぼくには、こういった具合の苦しみにこそ親密さを覚える。痛みにこそ安堵を感じる。胸をつんざく冷たい刃先にこそ、自己陶酔を伴わない正しい形での普遍を感じるのだ。耳の痛みが頭に及んで、白い靄が考えを妨げる。ぼくは銀のスプーンをイメージする。混濁したスープは、傾いたスプーンから少しずつ滴り落ちていく。落ちる先はやはり板張りの床だ、或いは円形の芝生だ、三角錐の形をした孤独だ。スープは分散される。そうしてもうほとんど、誰の記憶からも失われる。
記憶とは浅はかなものだ。ぼくらには記憶をもう少し厳密に定義する必要があるのではないか。つまり、記憶を自己と同一視することは辞めにしないか?こういった論旨はあらゆるところに散見され得る。たとえば結果とは何か?結果を重視するとのたまう彼に、結果とは何かを厳密に説明できるのか?否である。主張には、その主張を構成する言葉をきちんと知る必要がある、或いは、知らしめる必要がある。
つまり耳が痛い深夜の話だ、いや、もう朝も近かったかもしれない。これが記憶の浅はかさだ。どれだけスプーンが頑丈でも、スープはいつも不安だ。それは誰にも、何にも、依存しないからだ。今日美しいものが、明日醜くても、誰にも文句を言う権利はないということだ。ぼくのイメージは中央アフリカのサバンナに飛び、すぐさま北欧の海岸線に飛んだ。フィヨルドの底には財宝が眠ると言った。ぼくはそれを信じない。ナルヴィクの不凍港には悪魔が居ると言った。ぼくはそれも信じない。どうしてそれならムンクが居るのだ?ムンクは果して居なかったのか?ノルウェーのイメージは光を失って、ビートは戻り、痛みはぼくを引き戻す。音楽が鳴り止んだ。
身体が熱を帯びている。レコードプレイヤーの上に残された赤ワインを飲んだ。グラスを濯いでキッチンに戻した。プレイヤーのスイッチを押せばマーヴィン・ゲイ、昨晩繰り返し聴いていた。左耳の鼓動はまさにこれだ。痛みは鼓膜の奥から感じられた。キャンディーチーズの袋を冷蔵庫に戻して、ジャケットとトラウザーズとをクローゼットに戻した。一転肌寒さを覚え、パーカーを羽織った。一体どうなっているというのだろう。LPのノイズが苛立たしい…昨晩のことを思い出している、艶めかしい匂いがシャワーのように降っていた。見るからに粘度の高い音楽が冷気のように地面をゆっくりと這って、ぼくの足首をまとって籠絡した。美しさとは何か?眉のピアスがぼくに尋ねた。一方で、快楽とは何か?蒼い首筋がぼくに尋ねた。ぼくは靴のくすみを気にしながら丁寧に彼女らの輪郭に耳を澄ました…耳を!バターナイフで皮脂を絡め取り、薄切りのトーストに塗りつける。ショートブレッドの欠片はフロアリングに沈み込み、朝のコーヒーはすっかり冷めてしまった。何故ならそれは夜だ、ぼくは耳のことを考えた。彼女らの渦のような耳を、それは醜い、裏を捲れば残らず真赤に爛れていたからだ。もう遅いのだ、熟れたトマトのような耳の無数を毟り取ってダム湖に沈めた。赤茶けた山稜の向こうから空が浮かび上がって、大きな鳥が越えていった。イメージは山奥からダムを滑り落ち、天竜川を下って静岡の海に流れ出でる。しかしそこで終わりだ。また都会に戻る…爛れた耳は沈んだ、残っているのは無機的な身体だけだ、それはテンポラリーで、模倣的で、甘美で、仮初の、エロティシズム、乱舞する色とりどりの光線が明滅を繰り返して鼓舞した。腐臭と快楽は紙一重のところにある。たとえばぼくには、そう、たとえばぼくには、この腐った夜、耳の奥の疼く夜、こういった夜が身を打ち震わせるほどに快い。
そう、たとえばぼくには、こういった具合の苦しみにこそ親密さを覚える。痛みにこそ安堵を感じる。胸をつんざく冷たい刃先にこそ、自己陶酔を伴わない正しい形での普遍を感じるのだ。耳の痛みが頭に及んで、白い靄が考えを妨げる。ぼくは銀のスプーンをイメージする。混濁したスープは、傾いたスプーンから少しずつ滴り落ちていく。落ちる先はやはり板張りの床だ、或いは円形の芝生だ、三角錐の形をした孤独だ。スープは分散される。そうしてもうほとんど、誰の記憶からも失われる。
記憶とは浅はかなものだ。ぼくらには記憶をもう少し厳密に定義する必要があるのではないか。つまり、記憶を自己と同一視することは辞めにしないか?こういった論旨はあらゆるところに散見され得る。たとえば結果とは何か?結果を重視するとのたまう彼に、結果とは何かを厳密に説明できるのか?否である。主張には、その主張を構成する言葉をきちんと知る必要がある、或いは、知らしめる必要がある。
つまり耳が痛い深夜の話だ、いや、もう朝も近かったかもしれない。これが記憶の浅はかさだ。どれだけスプーンが頑丈でも、スープはいつも不安だ。それは誰にも、何にも、依存しないからだ。今日美しいものが、明日醜くても、誰にも文句を言う権利はないということだ。ぼくのイメージは中央アフリカのサバンナに飛び、すぐさま北欧の海岸線に飛んだ。フィヨルドの底には財宝が眠ると言った。ぼくはそれを信じない。ナルヴィクの不凍港には悪魔が居ると言った。ぼくはそれも信じない。どうしてそれならムンクが居るのだ?ムンクは果して居なかったのか?ノルウェーのイメージは光を失って、ビートは戻り、痛みはぼくを引き戻す。音楽が鳴り止んだ。
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