ぼくはしかし、最近ではそのように思っている。例えば「学生のうちにしかできないこと」なんてのは、実際はない。一般的に言って、それは或いは各国を行脚することで会ったり、合コンに明け暮れる日々であったり、或いは学業に打ち込むことであったりするのだろう。けれどもね、ぼくは、そんなことは学生でなくともできることだと思う。たしかに、会社に勤め、平均的な社会人としての暮らしの中に、そういった上に挙げたような要素は含まれないだろう。しかし会社員にならなければ各国を行脚することは可能だし、仮になったとて、仕事もほどほどに合コンを繰り返すことは決して不可能なことではないのだ。「学生でなければ」という条件の中に、彼らの言説においては、既に「平均的社会人とすれば」や、或いは「保身を考えれば」といった下らない枷が付け加えられているのである。はっきり言ってね、本当に打ち込みたいことがあるのなら、就職なんてしなければいいのだ、これは進学についてもほとんど同じことが言える。
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ところでぼくは何故働くのか。まだそれは分からない。どうして就職活動を選んだのか、それは分かっている。親へ感謝をしたいという気持と、ほかにするべきことが思い浮かばなかったということである。誰の所為にするつもりもない、これはぼくの人間性の問題である。無論人間性を環境や時代の所為にもしない。ぼく自身の問題なのだ、それが正しいか正しくないか、について語るには足らない。強いてその二元論に添わせるのであれば(つまり正しくあろうとすることはいつでも正しいことである)、それがぼくにとって自然であるという意味においては、正しいだろう。そう思ったからこそ、つまり、ぼくがぼくとして自然な振る舞いをする上で、就職活動を選択することに正しさを見出したからこそ、ぼくは幾度もの面接をこなしたのであった。
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経験に意味はない。しかし、経験に至るまでの認識と、経験のあとにある認識との中には、場合によっては大きな意味が齎される。つまり経験はある限定された場所においてのみ、媒体としての役割を果たす。経験そのものに意味があるわけでは決してない。その裏にある認識にこそ意味が孕まれ得るというだけの話だ。
その意味においてぼくは社会に出るのだろう。とすれば、今の段階での、ぼくの働く理由とはそこにあるのかもしれない。勿論それが本質的かつ普遍的にどこに依拠しているのかについて、ぼくはまだ知る由もない。或いは永遠に知り得ないかもしれない。けれどもそれに関してぼくは拘泥する必要が無い。今のぼくには関係づけの不必要な部分だからだ。
認識だ、認識だ。あらゆる行動に認識が裏付けらるるべきだ。ぼくはそう思っている。もうじき卒業を迎えようとしている段にいてなお、そんなふうに考えているのだから、ぼくは本当は愚かなのだろうと思う。ぼくは一等愚かである。死への憧憬さえ理解できる、そういった愚かさはどうなのだろうね。冬が深くつみあがる季節に、白い太陽が浮沈する時間に、やりきれない気持は毛布の中で成長するのだろうね。
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