2024/05/29

本当の美しさ

 地下深く、人知れず流れる清水の美しく微かな音。それは誰に聞かれることもないのに、なぜそれほどまでに美しい音であるのか。よもやスネッフェルス山の火口から三人の男が地底に潜り込み、疲れ果てて岩盤の向こうで耳をそばだてるはずもないと言うのに。

 昨晩、嵐のような夜の中、代々木上原の駅を降りてから赴任先の部屋までの五分程度の徒歩の間に、ぼくは、さまざまに散漫な考えを頭の中で巡らしたけれども、結局何もまとまらないままに、ずぶ濡れで鍵を握っていた。鍵?鍵である。都会のど真ん中で、それも権威と資本主義の権化のような街で、鍵を握っていた。此処は森の中の昭和の別荘ではないのだ。

 今日は打って変わって穏やかな陽気であり、日が暮れても過ごしやすく柔らかな風が吹いていた。いつもと違い小田急線を降りて、同じように帰路に着く間、ぼくは早く横になりたいとばかり考えていた。あまりに疲れていた。そうして部屋に着くとさっさとシャワーを浴びて、洗濯機を回して、掃除をして、それから音楽をかけた。寝支度を済ませた頃に洗濯機が止まり、浴室に干した。薄いハイボールを作って、部屋を真っ暗にして、この文章を書き始めた。ミスティ・ブルー。上に書いた地下水のイメージは、シャワーを浴びている間に浮かんだものである。どうしてそれは美しいのか?そして翻って考えると、あるいはぼくらが目にした美しいものは、ぼくらには見えない美しいものたちに比べれば、陳腐なものなのかも知れない。それはきっと事実だ。これは決して言葉遊びではない。寧ろ真剣に言葉に向き合うべき問題なのだ。すなわち、言葉にできないこと(時にノンヴァーバルな)が大事であるという思考停止に対するアンチテーゼとしての真実は、そういったことをこそ言葉にしなければならないという言葉の(文化の・思考の・人間の)必要があるのにも関わらず、本当の美しさというのは一向にその実態をぼくらの前に明かそうとしないという、極めて重要な問題をぼくらの側に突きつけることになるからだ。言葉遊びに留まらず、美と、それを鑑賞することしかできないぼくらとの間に、拭い去れない壁を認めなければならない、ある種の悲劇とさえ言える。

 もう一歩進むと、その壁を隔てさえ、ぼくらは想像の中で(幻想の中で)言葉を紡ぎ、その美への憧憬を表現しなければならないのだ。それこそが本当の言葉ではないのか?記号としての、一対一的な、ただの対話のためのツールとしての言葉ではなく、思考の源泉であり発露でもある美しい様式としての言葉の、あるべき姿は、そういうところにあるのではないか?

 澱みなくここまで書いてきたが、この先を続ける精神的な体力が、ぼくにはもう残っていない。とにかく疲れた。つまらない街だ。垢だらけの阿呆たちが数だけ集まって、その深刻な虚栄心を毎日いそいそと堆く積み上げ続けた結果が、この街を作ったのだろうと思う。これは日本史上の負の遺産だと思う。今こそ遷都を!!愛するがこそ忌まわし。エセとエセがかけ合わさっても、エセにしかならないのだ。ディストピアと名付けるにも醜い。

やめよう。美しさだけを求めよう。この街にはありえない、本当の美しさを。

彼女が今ぼくの目の前にいないように、美しさは地中深くでぼくの愛を感知しない。

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