コートの襟もとから胸の部分にかけて、彼女のファウンデーションがついた。それをぼくは落とさずに着ているから、傍から見ると少し汚れているように見えるかもしれない。けれどもぼくにとってそれは汚れではない。
思いの断片が剥がれては上空に昇っていく。それは妙な感覚で、少しずつ自分が剥がれ落ちていくような気持でいる。無理に自分を捻じ曲げて、その力に耐えきれなくなった皮膚が裂けては失われていくのだ。けれどもぼくには分かっている。それは仕方のないことなのだ。誰かを愛そうとする限り、人はそのようにして妥協を強いられる場合だってある。或いは意志とは関係なく、愛するたびに失わねばならないケースも往々にしてある。そういうものだ。
久しぶりにゆっくりと考えている。無論、本来であればそんな時間はない。ようやく履歴書を書き終えたところで、明日はまた5時過ぎには起きなければならない。ある企業についての勉強も済まさなくちゃならないし、正直のところ、最早うんざりさえしない。「スイッチを切れ」という言葉を思い出した。ぼくはスイッチを切ろうとしている。焦らなくていいのだ、また付け直せばいいのだから。いつだって本質を忘れてはならない。スイッチの位置は覚えておこう。それは決して難しいことではない。慣習は失われない。確かに少しは埃さえかぶってしまうかもしれないけれど、スイッチの位置は変わらないのだ。思い出してきちんとつけることができれば、すぐにぼく自身は取り戻される。
彼女のことをぼんやりと考えている…トマトジュースを一口含んだ、さほど美味しいものではない。ぼくは彼女の何を好きになったのだろうか。耳だろうか?胸だろうか?首だろうか?脚だろうか?何なのだろう。それはひどく難しい質問だった。どうして難しいのだろう、それはごく自然のことのように思われるのだ…つまり、ぼくと彼女とが同じ場所にいるという事実について。
毎日は悲しいものだ。これはぼくが二十年余りを過ごす中で見出した最大級の発見のひとつだ。人生は悲しみで満ちている。けれどもそれは落胆するべき事実ではない、なぜならば、悲しみというのはごく当たり前にそこにあるものだからだ。ぼくたちは悲しみと親密である必要がある。それを避けようとするのはある種の背徳だ。
だからこそ、ぼくは耐えることができる。彼女がここにいなくって、それがたとえやりきれないほどに悲しい気持にさせたとて、ぼくは大丈夫なのだ。悲しいことはまともである証拠だ。彼女がここにいないことに、肩を落としてため息をつくことは、ぼくにとっては確認のひとつにもなりうるということだ…勿論それが懐疑の解決になることはない、懐疑というのは断続的に続いていくもので、ため息をひとつつくというのは、結局のところその間に一つの関節のようなものを形成するにすぎないからだ。懐疑は新たな懐疑を生む。しかしそれを認識できるということでさえ、そんな些細なことでさえ、今のぼくにとってはすごく意味のあることではないか?
認識こそが行動に先立つ。ぼくは今でもそれを信じているし、たとえその考えに反するような文言を吐いたとて、或いは動きをとったとて、それすら認識の上に成り立っているという自信がある。その自信さえ失わなければ、ぼくは永久にぼく以外にはなり得ないだろうし、その意味において、ぼくというのはやはりぼんくらのノウタリンなのかもしれない。
諦めが肝心である。ぼく自身を慈しみ、あるがまま這いずるしか道はないのだ。
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