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ノートを買って、小説を書こうと思った。ある女の子との約束まで二時間ほど中途半端にあまってしまって、地下街の喫茶店で真新しいノートを広げた。しかしぼくにはろくに書くことができない。ペンを握ると、かつてそこにあったはずの感覚の損なわれていることを感じた。ぼくは確かに歳を取っているのだ、ぼくは思った。そうして高校生のころに書いた、「ぼくは失われ続けるものである」という旨の文章を思い出した。そうである、まさしく当時のぼくは真実を語っていたのだ。ぼくはただ、ぼうっと立っていることしかできない。何か行動をとった気になって、実は何もしていないのだ。そうしてただ、ぼくのエッセンスのようなもの、或いは重要な臓器のようなものが少しずつ、断片的に失われては足元の泥沼に沈み込んでいく様子を傍観していることしかできない。
桜の木のことを考えていた。空は高く澄み、桃色の花弁の散るを見下ろす青々とした葉桜の傘が逞しく、ぼくはその脇に立って只管失い続けるのだ。
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誠実さについても考え続けている…もうそこには、ほとんど絶望しか残っていない。ぼくはその絶望を丁寧に掬い取っては、背後に撒いて捨てていく。重油のような絶望はひどい臭いを立てているけれど、ぼくはもう慣れた。それはまさに習慣の勝利であった。その具現のさなかにありながら、ぼくは表情を崩すことも無く、ただ誠実さと言う概念が絶望に浸食されていくことに欠伸をしている。
そこには誠実さは有り得なかった。それはぼくには驚くべきことだった。また別の場所を掘りはじめなければならない。ここには誠実さはなかったのだ。
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抽象的なことばかりである。けれども、本当の具体性と言うのは、しばしば抽象の究極のところに位置するのではないかとも考えられ得る。そうではないか?少なくともぼくはそう考えている。抽象論はひどく苦しいものだ。けれども、その苦しみこそがぼんやりとした輪郭にはっきりとした陰影を与えるのだ。少しずつその姿が白日の下にさらされ始めている。確かにそういった感覚を持っているし、かならずや、今年の終わるまでにはその全貌を把握しなければならないと、ぼくは切実に望んでいる。焦燥は不要だ。
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