2014/06/20

何も知らない

 ケフラヴィーク国際空港に向かって機体が着陸態勢に入ると、窓から大地が見えた。ぼくははそれを月面と見紛った。斑ひとつない、眩しいほどの青の足もとには、灰色の荒野が延々と広がっていた。滑走路だけが不自然に一本、浮かんでいた。妙な気持になったものだ、今でもよく覚えている。チョコレートバーを齧りながら、ぼくはぼんやりと景色を眺めていた。



 大学生になったぼくは、国内のあらゆる土地を歩き回った。鈍行列車に宛てもなく揺られ続け、一等閑散とした駅で下りることを好んだ。昼間のベッドタウン、東北の山間部、和歌山の奥地。ぼくはバックパックを背負ってホームに足を踏み出す度に、かつての、高校一年の時分に感じた、かのアイスランドの感覚を思い出すのであった。音楽ともない音楽が脳裏をうっすらと流れてゆき、匂いともない匂いが鼻腔の裏を撫でていく。腹の底で打ち続ける鼓動はぼくを果てなく歩かせた。知らない土地がどうしようもなく好きであった。ポケットの小銭を握りしめて、時間の制約を逃れて、背中にじっとりと沸いてくる汗をも好意的に受け入れる。そこには確かにぼく自身が在ったのだ。そこにいる自分こそに、ぼくは意味を見出していた。



 大学の単位もそこそこ取り終え、就職活動を終え、周囲は口々に、ぼくのことを順風満帆だと言う。羨ましいとのたまう。他大学の女の子の態度もがらりと変わり、親類もやたらと褒め称える。ぼくはもう、本当にうんざりしていた。なんだか一つの展示品にでもなった気分だった。順風どころかそよ風さえも吹かず、満帆どころか帆は垂れて微動だにしていない。それはぼくにとっては不思議だった。自己顕示欲、承認欲求、ぼくに備わっていると思い込んでいたものに対して、その不在をありありと感じたからだ。

 ぼくは本当にうんざりしている…金曜の昼間から大掃除をしている。全ての不要物を捨ててしまおうと思った。シャワーを浴びて、洗濯をして、ビールを飲んでいる。女の子から今夜飲もうとラインが届いていた。飲みたくないわけではなかった。しかし彼女の話は詰まらないし、何しろ情欲に掻き立てられることに快さを感じられそうにはなかった。



 「知らない土地を歩くとき、何を考えるの?」

 そう尋ねられたことがあった、もう二年以上も前の話だ。横浜の裏手にある居酒屋で、カウンターでビールを啜りながら、ある女の子と焼き鳥を食べていた。ぼくはその問いに答えることができなかった。

 旅の中で考えることには、ある種二次産物的な側面があるのかもしれない。何故なら、ぼくは考えるために旅をしているわけではなかったからだ。自分を探求しようだとか、何かを知得しようだとか、そういった意識はまるでなかった。それに気が付いたとき、ぼくは驚いた。ではどこに意義があるというのだろうか。あえて言うなれば、ぼくは考えてなぞいなかった、いや、厳密に言えば、意識的に考えると言うことはしなかったのだ、結果的に考えるに至ることこそあれ。



 移動し続けることに意味があるのかもしれない。つまり、大地に触れ、できるだけ自分以外のもの、あわよくば人間以外の要素のみに囲まれ、そこで歩き続けること。そういった欲求が無意識のうちに働いているのかもしれない。寒空の早朝に歩く紀ノ川沿い、熱帯夜にうずくまる四万十川の暗闇、ぼくはそういった瞬間に、自分の容認される感覚を抱いているのかもしれなかった。



 アイスランドを旅する間、ぼくはゆっくりと本を読んでいた。それは古く、名も無い小説で、長野の山奥に住む叔母から送られてきた古本だった。飛行機から飛び降りた男がセックスを拒んでレモネードを飲む話だ。大学に進学して引っ越すときに、何かに紛れて失くしてしまった。ぼんやりと、ある女性の首筋を思い出している…ぼくはそこに傷をつけたい。

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