ぼくは踵を返して部屋に戻った。そうして服を脱ぎ捨て、レコードプレイヤーにグレン・ミラーを回し、電気を消して、寝床に戻った。音楽が雨音を消して、薄暗がりの部屋に安寧を感じた。こういう金曜日があってもいいではないか。ぼくはいろんなことを考えながら微睡み、最後にはやはり、憂鬱な惰眠に落ちて行った。
*
雨が止まない。インスタントのコーンポタージュを啜りながら夕暮れ時、今度はダニー・ケイを聴いている。夕暮れとはいえ、陰鬱な雨雲の所為で、その時間の経過は感じられない。ただのっぺりとした景色が繰り返し流れて行くだけだ。ぼくは開けたカーテンをまた閉めた。それからゲームで暇を潰した。何件か酒の誘いがあったが、断ってしまった。寝起きの呆けた頭でまた、下らないことを考えていた。彼女の乳房のことだとか、この間女友達と話した結婚の話、後輩のコンプレックスの下り、勉強する気も起きない講義の中間試験のこと。夏野菜カレーを食べたいと思った。女の子の作ったカレーを食べたことがない。ぼくはカルボナーラやロールキャベツは食べたが、女の子の作ったカレーを食べたことがなかった。詰まらないなあとゲームを切って、仰向けになって天井の染みを眺めた。三年前の飲み会でついた染みだ、由来も成分も分からない。奇妙な複数の模様と、その配置は、なんだかモダン・アートな感がある。
前の彼女のことを考えた。途端に多くの音楽を思い出した。ダニー・ケイは知らぬ間に終わっていて、雨の音が伴奏になった。湧水の如く音楽は溢れだした。それは雑多にしてしかし、深海に居るような静けさを伴っていた。筆舌に尽くし難きかく浮遊、とぼくは頭の中で書いた。オリーブの種、彼女はタリスカーを飲んでいた。
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なんとなしに外に出た。古いパーカーと撚れた短パン、駅前の居酒屋で拾ったサンダルでおめかしをした。手ぶらだ、財布も持たなかった、コインを適当に掴んで持ってきただけだ。音楽を聴きながら歩いた。雨は止むどころか、強くなっていた。アパートの前の坂道を川のように流れていく雨水、その流れに逆らうように、ぼくは上った。音楽を聴いている、それはどんなものでもよかった。再生をすると、それはぼくが中学二年のころによく聴いていた音楽だった、マイナーな曲だ、好きと言うわけでもない、ただ、当時のことが思い出されるだけだ、無色に。
雨の中で緑は映える。どうしてだろうか、道沿いの竹藪は活き活きとしている。その一本一本が、嬉々として雨のその身に流れるを受け入れている。藪から目を落とすと、打たれて散ったのか、吹かれて散ったのか、足元に若い葉の一枚が落ちている。ぼくはしゃがんでそれを手に取った。厚みを感じる。
コンビニで雑誌を買った。帰ってシャワーを浴びて、また眠った。目を覚ますと外は暗闇だった。
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電話をした。何とも言えない気分だ。
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午前四時、昼間眠りこけた所為で、まるで寝つけない。仕方なくこの文章を書いている。雨はまだ止まない、結局、ずうっと降り続けている。あるいはぼくの寝ている間に、止んでいたのかもしれない、いやあ、それはないだろう。音楽を聴いている。電気を消した部屋、暗い部屋で一人、腰をさすりながら言葉を捻りだしている…まさに捻りだしている。文章を書くというのは、小説を読むことよりもずっと苦しい。けれども書かねばならない。彼女の声を思い出した、どういうわけか、かっと全身の熱くなるのを感じた。ぼくは退屈な人間になってしまったのかもしれない。それでもいいのかい?ぼくは詰まらない人間になってしまったのかもしれない。
それは仕方のないことだ。今はただ、ひとつのことだけだ。
雨は止まない。明日のうちに深夜バスの代金を振り込まなくちゃ。彼女の匂いを思い出そうとしている。けれどもそれは徒労だ。バーボンをグラスに注いだ。氷を取りに起き上がるのも億劫だ。一息に飲みこんだ。どうしたって、ぼくはこんなにも寂しいのだろう。
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