2019/03/08

溢れそうなので掬い上げてどうにか文章を書いた

 春の手前にはやはりどうにもしがたい苦しみが訪れる。それはかつては、この目で見えていたはずの春霞だ。薄情なまでに均一に青く染まった明け方の空の上から滲み出るように、或いは朝ぼらけの奥に張り付く山々の稜線を向こう側から越えて…表現はどうとでもできるが、感覚そのものは変容しようもない、今やぼくの両目では捉えることができなくなってしまった種類の春のぼんやりとした霞が、しかし確かに事物としてぼく自身を覆い隠してしまおうとしている。―祖母はある人が死ぬと「お隠れになった」という表現をするが、ぼくはこれが好きだ。
 そして、おそらく、この苦しみをさえ、ぼくは愛している。妙に気味の悪い悲しみ―誰も知らない山の奥にひっそりと湛える池には、大きな葉が一枚浮いている。深い緑の葉だ。中空からそれを眺めれば、実に無慈悲で、どうにも不条理なほどに硬質な濃い色合いや表面をしている。しかしひとたび水中から見上げるようにそれを見つめれば、葉の裏は繊細で美しく、淡く穏やかな様子なのだ。たいていの人には、水中からそれを見ようという発想ができないし、仮にできたとて、試そうとする人もいない。そして偶然、水中から一度それを捉えることができた人でさえも、気を抜くとすぐにその感動を忘れてしまう。たいていは二度と、運がよくとも長い時間、それを思い出すことはできないのだろう。
 ぼくが抱えている悲しみは、そういう悲しみであり、ぼくが感じている苦しみは、まさにそういった苦しみである。



 昨晩、息子が産まれた。ぼくは父親になった。



 ようやく少し落ち着いた。母子とも健康、順調な出産だったが、それはもう一大事であるので、大変な騒ぎであった。はじめから立ち会うことができたのは素晴らしいことだった。その後両家の対応に奔走し、できる限りのサポートをしたつもりだ。今夜は自宅に戻り休息をとり、明日はまた病院に泊まることにしている。それを望んでくれているし、ぼくも今のうちに、学んでおかなければならないからだ。

 そう、ようやく落ち着いて、風呂に浸かり、慣れ親しんだレコードをかけて、およそ三週間ぶりにビールを飲み(先日風呂で思い起こせば、どうやらこれは十九の頃からして、これまでの人生で最も長い期間に及んだ断酒だ)、そうしてやっと、じんわりと実感めいたものが沸き上がってきたのは、この文章を書き始めてからだ。

 悟りきったようなことは書けない。こういう比喩はあまり好きではないが、それなりの望遠鏡を覗けば、それなりの星々の姿を捉えることができる。そしてそのうちの幾つかが、悟りきったような事実に見える。けれどそれは、そう見えるだけなのだ。それだけは分かる。まあこれだって、ある種の悟りきったような話なわけだけれど。

 いずれにしても、確かな事実は、ぼくが、12の頃衝撃的な恋心を抱いた相手との間に子を授かり、父親になったということだ。



 ぼくが今夜この文章を書いているのには二つのきっかけがある。ひとつは、この感覚を記録しておきたいというぼくの欲望。それからもう一つは、文章を書かずにはいられないというぼくの中の衝動だ。

 長らくぼくは、文章を書いてきた。もっとも、四年近く前に社会人になってからは機会が減ってしまったが、それまでのぼくの生活において、周りの人に比べて際立って多く与えられたのは時間であった。もちろんその原因のひとつにはぼく自身の選択の傾向もあったが、結果して潤沢な時間はぼくにいろんな思いを巡らせるためのチャンスを与えてくれたし、少なからず考えたこと、見つけたこと、苦しんだことを書き留めることにも影響したはずだ。

 そう、そう。考えたことを書き留める。そういった行為がぼくの中には常にあった。十三のころに始めたことだ。それは意識的に始めたわけではなかったはずだ。

 数えきれないほど多く書いてきているが、ぼくは考えることを大切にしてきた。考えることが何よりも大事であるというのが信条であった。もう、これは、ある種の疾病である。認めよう。けれども、それがぼくにとっての正しさであり、何よりもの誠意なのだ。自分にとって誠実であろうとすれば、ぼくは考えることに至る。
 これからもそうやって生きていくのだろうと思う。どんなことがあっても、考えることはやめない。むろん、世の中で生きていくには、考えることを避けなければならない場面もある。外的な要因によって、チープな不条理さによって、考えていては狂ってしまいそうな局面がある。これは偏に、世の中には驚くほど多くの阿呆がいるからだ。けれどもそれを嘆いている術はない。そういうときは潔くスイッチを切るのだ。ただし、愛する人たちや、自分自身の大切な部分について、考えることは決して止めない。たとい考えることで痛みを伴うような場合でも、深い傷を覚悟しなければならなかったとしても、ぼくは考えることを信じている。疑り深い性分のぼくが唯一信頼しているのは、考えることだ。考え抜くことは、ぼくにとっては大切なことなんだ。



 この文章を、ぼくはゆっくり書いている。夜が深まる。ビールは気づけば四本空いたし、これからウイスキーにも手を伸ばす。音楽は驚くほどにソリッドに聞こえる。正しいことだろうと思う。



 春の悲しみは心地よくさえもある。遠浅の海面に仰向けに浮かんで目を閉じれば、その豊かなる悲しみは次第にぼく自身に染み込んでいく。ぼくはそんなさなか、子を授かったというわけだ。得も言われぬ感動に―それは感動でさえなかったのかもしれないが、打ちひしがれたぼくは、なんとも情けない姿だったことだろう。

 ぼくはこれからも考える。肩書や外見は変わっても、考え続けることだけはあきらめない。父になろうと、年を取ろうと、ぼくはぼくとして、考え続け、考え抜いて、ぼく自身を全うするんだ。そう決めている。



 そろそろ眠ろう。



 さいごに。
 我が子よ、おめでとう。愛しているよ。

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