2024/05/29

本当の美しさ

 地下深く、人知れず流れる清水の美しく微かな音。それは誰に聞かれることもないのに、なぜそれほどまでに美しい音であるのか。よもやスネッフェルス山の火口から三人の男が地底に潜り込み、疲れ果てて岩盤の向こうで耳をそばだてるはずもないと言うのに。

 昨晩、嵐のような夜の中、代々木上原の駅を降りてから赴任先の部屋までの五分程度の徒歩の間に、ぼくは、さまざまに散漫な考えを頭の中で巡らしたけれども、結局何もまとまらないままに、ずぶ濡れで鍵を握っていた。鍵?鍵である。都会のど真ん中で、それも権威と資本主義の権化のような街で、鍵を握っていた。此処は森の中の昭和の別荘ではないのだ。

 今日は打って変わって穏やかな陽気であり、日が暮れても過ごしやすく柔らかな風が吹いていた。いつもと違い小田急線を降りて、同じように帰路に着く間、ぼくは早く横になりたいとばかり考えていた。あまりに疲れていた。そうして部屋に着くとさっさとシャワーを浴びて、洗濯機を回して、掃除をして、それから音楽をかけた。寝支度を済ませた頃に洗濯機が止まり、浴室に干した。薄いハイボールを作って、部屋を真っ暗にして、この文章を書き始めた。ミスティ・ブルー。上に書いた地下水のイメージは、シャワーを浴びている間に浮かんだものである。どうしてそれは美しいのか?そして翻って考えると、あるいはぼくらが目にした美しいものは、ぼくらには見えない美しいものたちに比べれば、陳腐なものなのかも知れない。それはきっと事実だ。これは決して言葉遊びではない。寧ろ真剣に言葉に向き合うべき問題なのだ。すなわち、言葉にできないこと(時にノンヴァーバルな)が大事であるという思考停止に対するアンチテーゼとしての真実は、そういったことをこそ言葉にしなければならないという言葉の(文化の・思考の・人間の)必要があるのにも関わらず、本当の美しさというのは一向にその実態をぼくらの前に明かそうとしないという、極めて重要な問題をぼくらの側に突きつけることになるからだ。言葉遊びに留まらず、美と、それを鑑賞することしかできないぼくらとの間に、拭い去れない壁を認めなければならない、ある種の悲劇とさえ言える。

 もう一歩進むと、その壁を隔てさえ、ぼくらは想像の中で(幻想の中で)言葉を紡ぎ、その美への憧憬を表現しなければならないのだ。それこそが本当の言葉ではないのか?記号としての、一対一的な、ただの対話のためのツールとしての言葉ではなく、思考の源泉であり発露でもある美しい様式としての言葉の、あるべき姿は、そういうところにあるのではないか?

 澱みなくここまで書いてきたが、この先を続ける精神的な体力が、ぼくにはもう残っていない。とにかく疲れた。つまらない街だ。垢だらけの阿呆たちが数だけ集まって、その深刻な虚栄心を毎日いそいそと堆く積み上げ続けた結果が、この街を作ったのだろうと思う。これは日本史上の負の遺産だと思う。今こそ遷都を!!愛するがこそ忌まわし。エセとエセがかけ合わさっても、エセにしかならないのだ。ディストピアと名付けるにも醜い。

やめよう。美しさだけを求めよう。この街にはありえない、本当の美しさを。

彼女が今ぼくの目の前にいないように、美しさは地中深くでぼくの愛を感知しない。

2024/05/19

週末の記録

 金曜日、静岡で会議が早く終わった。職場に戻れる時間だったが、連れ立った同僚と話をして、それは辞めることにした。彼は北陸の実家に帰るため、新幹線に乗って西へ行ってしまった。ぼくはおでんを食べようかどうしようかとコーヒーを飲みながら考えて、あるいは同じように西に向かって家に帰ろうかとも思ったが、やめて、赴任先の東京の部屋に戻ることにした。大変天気の良い夕方だった。こだまに乗った。カフェで買ったシナモンロールを齧りながら本を読んでいたらあっという間に品川に到着した。ぼくは気まぐれに渋谷に向かった。何日か前に調べたロックバーに行くことにした。そのバーは公園通りを途中に左に折れ、オルガン坂を登った途中にあった。辺りは色とりどりの髪色をした若者ばかりで、スーツを着た人間はぼくを除いていなかった。まるで違う世界に来たようだった。スフィストのガリバー旅行記を思い出しながら、さながらリリバット国の小住民を掻き分けるようにして雑居ビルの前に立つと、2階を指す看板が立っていた。

 階段を登るといかにも暗く、壁と見分けがつかないほどの扉があった。その扉を開いて入ると、そこにはこぢんまりとしたバーカウンターと夥しい数のレコードとが狭い空間に並び、その中心に華奢な老人が椅子に座って本を読んでいた。客はいなかった。

 二時間半ほどの間に、訪れた客は1人であった。彼はもうすぐ七十だと言った。そしてブライアンウィルソンの気が狂っていた頃の話を教えてくれた。彼は天才だが、天才というのはいつも狂ってしまうのだから大変なんだよな。と彼は言った。マスターは優しい顔をしながら頷いていた。なんだかぼくは恥ずかしい気持ちになった。どうしてだか分からない。とにかく良い時間であった。疲れもあって早い時間に退散した。まっすぐ代々木上原に帰り、日が変わる前には寝床についた。

 土曜は早く目が覚めてしまい、寝直そうかと努めたが無駄だった。結局昼ごろまで部屋で荷物が届くのを待ってから、外に出た。金曜と同じように、素晴らしい天気であった。ぼくは嬉しい気持ちになった。部屋で荷物を待つ間に、日本近代文学館に行こうと決めた。芥川に関する展示が開かれていることを知ったからだ。部屋を出てから二十分程度で、駒場東大前に降りた。東京大学の構内を通り抜けると、ちょうどその裏側に文学館は位置していた。並木道を歩きながら、三島由紀夫と芥川龍之介のことを考えた。それから、大学の同期のことを思い出していた。彼は東大の大学院に進んだ。ぼくは進学をせず就職をすることにした。文学は実学足り得ないと思ったからだった。

 展示は見事なものであった。ぼくは丹念に全ての展示物をじっくりと観た。特に歯車の原稿には圧倒された。結局彼もぼくと同じ人間であったのだ。

 文学館を出た後、横浜のロックバーに行った。そこで昔のバス・バーの話をした。マスターは伝説上の店であり、自分は行ったことがないんだよと羨んだ。ぼくは一度だけ女の子に誘われてその店を訪れたことがあった。内装や、その店のマスターの風貌ははっきりと覚えていたが、どうしてその店に行くことになったのか、そこでどんな話をしたのかを思い出すことができなかった。彼女は覚えているだろうか。いや、忘れてしまっているに違いない。とにかく、そのバスはもうそこにはないそうだ。山下公園近くの海沿い、堤防のすぐ手前のようなところにあったように、朧げながら記憶している。蒸すように暑い夏の夜ではなかっただろうか。あるいは全ては夢であったのかもしれない。それほどに幻想的な夜であった。

 それから、昔の話をいろいろとした。気がつけばその店に通うようになってから十年以上が経過していた。彼はぼくの健康を案じてくれた。働きすぎちゃダメだよ、深いところでは変わってしまってほしくない、と。

 22時過ぎに店を出て、部屋に戻った、やはり24時頃には寝床に入り、眠りについた。その晩は本当に久しぶりに、よく寝れた。

 三度ほど目は覚ましたが、その度にすぐに眠りに戻り、日曜、起床したのは九時ごろであった。予め決めていた通り、洗濯をして、部屋の掃除をいつもより入念に行った。掃除機をかけるだけでなく、あらゆるものの整理をして、拭き掃除もした。それから月曜以降の準備について整理して、最後に身なりを整えて、部屋を出た。昼前になっていた。

 土曜、バーに行く直前に、横浜駅ルミネの地下にある小さな有隣堂で5冊もの本を買ったので、それと、少しずつ読み進めているプルーストとを鞄に入れて、下北沢のジャズ喫茶に逃げ込んだ。日曜は今にも雨が降りそうな曇り空が一日続いた。

 ジャズ喫茶は居心地の良い店だった。美味しいコーヒーを飲みながらカレーライスを食べて、昨日買い直した(家にもう一冊ある)歯車を再読した。一気に読み終えると、急に音楽が大きく聴こえるようになった気がした。

 その後別のミュージックカフェに入ってビールを一杯とサラダを一皿食べた。

 そしてさらに、先日一度訪れた老舗の喫茶店に入り、一時間ほど本を読んだ。

 それから代々木上原に戻って銭湯に向かった。ゆっくり風呂に浸かって、その後缶のポカリスウェットを飲んで、帰路についた。

 チルドのラザニアを食べて、ソーセージを食べながらビールを飲んで、チーズを食べながらハイボールを飲んで、それでこれを書いている。

 本を読もう。本を読もう。本を読もう。

2024/04/11

がらんどう

 ただいたずらに幾つかの文章の断片を書き連ねては、消した。それがぼくの中にきちんと根付いている考えなのか、あるいはただ、どこかで無意識のうちに仕入れた無数の情報が、たまたまランダムに配列されただけの、記号の集合にすぎないのか、それを判別することができない。自分の考えというものが、その枠組みが、いつの間にかぼくの中から失われてしまったのかもしれない。

 いや、失われたと信じたくはない。おそらくその抽斗はあまりに長いこと引き出されないままであったために、他の多くの要素の中に紛れて、きっと部屋の奥の方に追いやられてしまったに過ぎないはずだ。昔、それはもう十五年以上前に、頭の中に部屋があるという話を書いたことがった。その話の中で、ぼくの頭の中にいた女の子は、最後にスーツケースに荷物を全部詰め込んで、遂に部屋を出て行ってしまう。ぼくは上の文章を書きながら、その部屋のことを思い出した。そこにはきっと古い桐の抽斗があったはずだ。そして今でも、探せばきっと、部屋のどこかに抽斗が残っているに違いない。

 いずれにせよ、ぼくは新しい文章を書くことができなかった。

 四月に東京に住み始めた。厳密に言えば、三月三十日に越してきて、四月一日から、単身赴任が始まった。二週間が経とうとしているが、大変忙しい。

 できるだけ文章を書きたい。そして残したい。誰にも、何も伝えられないこの日々は、必ずぼくにとって重要な時間になるはずだが、同時に子どもたちにとっても役にたつことになるはずだ。今のうちに(抽斗がどこかにあるとまだ信じられているうちに)、考えていることを書き残したい。

 もう少しハイボールを飲んだら、寝よう。

2023/08/14

静物的なイマージュ(台風がやってくる)

 古い文庫本の茶色く焼けたページを見つめながら、川沿いの春の夕暮れに、ベンチに腰掛け、ぼんやりととりとめのない妄想に耽っていた。それは二十歳か二十一歳の春であった。湿った足元、地面には数日前に散って萎れた桜の花弁が無数に斑点模様をつくっていた。ぼろのサンダルの中で爪の伸びっぱなしの指を折ったり伸ばしたりしながら、兎に角、百年近く前に自死した男の書いた文章を読んでいたのであった。その文庫とて高校生の頃に名古屋は本山の古本屋で買った代物で、おそらく八十年代ごろのものであったろうか。今思えば、ぼくは無意識的にそういう死んだものに触れることで、どうにかして今の自分の正気を保とうとしていたのだろうと思う。
 その川は江ノ島の近くに流れ出ていた。いみじくも同じ川が舞台として、その小説の著者の別の作品に出てきたときには驚いた。そういう恣意性から遠くにある偶然の経験が、ぼくの考えを決定づける。逆に、予定された経験や、あるいはまったくの無思考の中にある経験みたいなものが、ぼくはこの頃から今までずっと嫌である。この自分の性質をぼくは気に入っているけれど、はっきり言って、生きづらい。(しかし人生とは生きづらいものだし、一切皆苦というのはぼくはしょっちゅう引用するけれど、つまりそういうことだと信じているので、少なくとも自分にとっては論理的に正当なのだ、これは蛇足であるが消さない)
 別の夏の夕暮れに、この川の河口付近で本を読んだこともあった。匂いを嗅ぎながら、海岸の音や気配に包まれて、ひとりで過ごした。


 ひとりで過ごす時間が多かったし、できるだけそういう時間を大切にした。それは大学時代のみならず、その前も、あともそうだったけれど、悲しいかな、家族ができるとそうもいかない。もっと努力をしなくちゃならない。

 ぼくは人はやはりひとりで生きるものだと思う。これは何も、人はひとりでは生きられないという使い古されたいわゆる常識に対する完全なアンチテーゼではない。ぼくは、ある意味では、やはり人には孤独的な”要素”が必要であろうと思う。そんなことをここ数か月考えていたような気がする。(いつもフワフワとしたガスのようなものが浮かんできては、忙しくしている間に消えて行ってしまうのだ)
 なぜか?それはやはり考えるためなんじゃないか?孤独でないと、常に人といると、深い思考はできない。すぐ上にも書いたように、考えるきっかけやヒントや発想に出会えたとしても、そこに他者とのコミュニケーションがある時点で(あるいはその瞬間に物理的にひとりであったとしても、他者とのコミュニケーションというものに習慣的に囲まれていたり、それが前提の思考である時点で)、具体的実存的存在としての自己の内面に深く抉るように潜るように思考することは、できないのだ。

 そう、ひとりの時間に、じっくりと自分の考えの階段を下りていくことがとても大事なのだと思う。一段一段確かめながら、真っ暗闇の中の螺旋階段を下りていく。音楽は聞こえているような気もするし、そうでない気もする。足の裏は硬い一段をとらえているような気もするし、わずか浮かんでいるような気もする。そういう行為がその人をつくるんじゃないか?


 それは名古屋駅近く、高層ビルの半地下にある純喫茶かもしれない。あるいは鎌倉に道に迷った先にあった謎のダイニングバーかもしれない。裏横浜のいつものロック・バーのヒゲのおじさんや、飲み友達の酒乱数学教師や、岐阜のメキシカンバルの靴屋芸術家や、元住吉の細くて背の高い女の子の家でユニフォームを脱ぎながらYUKIを聴いた夜かもしれないし、伏見稲荷をのぼっている最中に知り合った一橋の米留学生と、下山後に食べた親子丼かもしれない。肺を患って、携帯電話を使えるスペースまで管と機械を引きずって歩いて、痛みに耐えながら聞いた女の子の声かもしれないし、イギリスから一時帰国する便で眠れずに聴いたMP3プレーヤーのMEGARYUかもしれないし、京都の部屋で嗅いだいい匂いかもしれない。

 とにかく、淡くも鮮やかで、確かな画材で描かれた静物画的なイマージュが、ぼくを何とか生きながらえさせている。ぼくはいつも過去だと思う。今のぼくはただの、最新の過去に過ぎないのだ。ぼくはいつも過去にいる。そして過去の素晴らしい記憶の中で、こんな風に、時々酔っぱらいながら、意味のない文章を書いている。そうしてきっとすぐに四十になって、五十になって、どんどん訳が分からなくって、過去の中で死んでいくのだ。死んだときに(ぼくにとっては、考えつくしたときに)、はじめてぼくは動かぬ過去になる。完結した過去になる。もしかすると、それをどこか夢見て、ぼくは”今の過去”に執着しているのかもしれない。


 妻が子どもをふたり連れて今日明日と実家に帰っている。ぼくも行くつもりだったが、台風が来るので、自宅で仕事をすることにした。彼らは昼は鰻、夜はすき焼きを食べたそうだ。ぼくはひとり酒を飲んで音楽を聴いて文章を書いた。これでよいのだ。これがぼくにとっては何よりもの滋養なのである。悔しいからアイスも食べた。
 ぼくはひとりだと思う。思いたい。ひとりとしてのぼくがいるから、妻や子どもやいろんな人たちに、思いやりを持つことができるのだと思う。

 台風がやってくる。それは遥か南方からやってくるのだ。台風の生まれる海域ではどんな時間が流れているのだろうか?ぼくはモルディブで宿泊したヴィラのハンモックで揺れながらそんなことを考えた。つまり、人間のいない海原で、そこで自然はどんな形をしているのか?誰にも認識されない海上の中空は、いったいなんなんだ?不安とも高揚とも言えぬ妙な気分になった。そんな海域で人知れず生まれた台風はセンサーによって数値化された形でおそらく不本意にも事前に認識され、そしてぼくらのもとにやってくるのだ。

 台風がやってくる。もう少し酒を飲んで寝ようと思う。明日は電車も動かないらしい。

2022/08/17

自分自身について、自分と他者(社会)について

  会社勤めをしている中で感じるジレンマについて、ある日落ち着いて考えてみた。正しいかどうかは別にして、少なくとも今の自分にとっては腑に落ちる解釈に半ば至りつつあるようなので、覚えで書き留めておく。この考えを時間をかけてゆっくり深堀るには、最近の日々は忙しすぎるため。(とはいえ、今このタイミングを逃すと、途中まで進めた考えでも、今度続きを始めようとした時点では、もうまったく別の発想が出てきたりするかもしれない。むろんそういったことも念頭に置きながら、書き記す。)

 ここでいうジレンマとは、会社勤めをしているときのみならず、社会の中の自分という構図・立ち位置について考えるとき、時折直面するものである。すなわち、社会的正当性(正当ということが確からしいだろう性質)と、自分自身との間に生じる乖離感のようなもので、自分のポリシーとは一致しないが、しかし社会的存在としての自己を重んじれば、取らなければならない選択肢を選ぼうとしている瞬間などに、ぼくの眼前に、そのトゲトゲが現出する。

 で、結論から言えば、これはおそらく、自分の内面の整理と、自分と他者との関係性の整理とを考えたとき、それぞれを構成する要素がすべて一致しなければならないのではないか、というある種の強迫観念にとらわれるからではないか、と考える。

 つまり、自分自身の中で正しいと思われている様々な考え方(それは外面に表現するものもそうでないものも含め)が、他者(あるいは社会)と自分との関係性においても、必ずすべて同様に、正しいと評価されなければならない、と思い込んでしまっている、ということだ。普段、自分の頭でいろいろなことを考えているようで、ややもすると、あるいは上記のような状態に陥ってしまうようなことは、ぼくに限らず、多くの大人にとって屡々起こりうるのではないか。

 一方で、と、ここから、ぼくはその観念、焦りのようなものから抜け出すために一呼吸おいて、「自分の頭で」改めて考えようとした。こういうとき、頭を冷やして、数歩引いた距離から、自分を含む全体を眺めることが大切だ。もちろんこれは比喩で、例の自己の他者性の問題(自己を観察しようとしている主体もまた自己であり、完全な自己の客体化は実現しえない)を孕むわけだが、こういったケースにおいては、あくまで鳥瞰することを意識するということが肝要なので、そこまで厳密な定義は必要がないと考える。

 そう、それで何を考えたのか。

 話はきっと単純で、「いやいや、すべてが合一する必要はないよ」ということだ。寧ろ、自分の内面における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)と、自分と他者との関係における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)とは、多くの矛盾を抱えていても問題はないとも考える。

 そういった中で、両領域に幾つかの接点があり、それらの点の色合いが合一していれば、それで全く問題はないのだ。他者・社会は存続するのだし、その中若しくはその対岸に位置するぼく自身も、しっかりと存続していくのである。

 こんな具合で解釈すれば、無理なく自然な形で、自分についても、自分と他者との関係性についても、整理することができるように思われる。

 加えてさらに言えば、自分自身を整理すること、言い換えれば内省には、すでに前提として他者の存在があるということを忘れてはならない。人が利己的であることはごく自然なことであるが、利”己”という言葉がすでに、「他に対する己」という意味を持っている以上、すでに他者の存在を二項対立的に認めていることになるのだから。言いたいのは、先に述べた「自分の整理」というのは、その時点である意味他者との関係性を予言することを禁じ得ないということだ。

 これは一見すると(特に十代のころのぼくみたいな人間に言わせれば)、「迎合である」ように見られるかもしれないが、そうではなく、認識の正しい形での、誠意に満ちた精査であると考える。反対に、先の話に戻れば、自己と他者との完全な合一を信奉し志向することこそがまさに純粋なる迎合と言えまいか。その観点からすれば、自己という言葉が他者を内包しているという解釈は、寧ろ逆説的に(というべきか、構造的に、というべきか)自己の自己性を明示することに他ならない。

 以上のような解釈でもって、現時点では、自分自身について、自分と他者についてという問題に対するスタンスを取ろうと思う。

2021/06/24

しなやかに生きる

 もう一月もすれば三十になる。ぼくは忙しく働いている。文章を書かなくなった。
文章を書きたいという気持ちは、以前のように持ち続けているつもりだ。常に持っていると言ってもよいだろう。そしてときには筆をとろうとすることもある。けれども書かない。理由は、いくつか考えられるが、厳密には分からない。
 今夜は、会社を出るころから、帰ったら何か書こうと考えていて、珍しく実際に、こうしてキーボードを打つことができている。
 余裕があるというわけではない。むしろ逆で、いつにもまして忙しい一日であった。夜中三時に息子の咳で目を覚ましてからろくに寝付くことができず、居間のソファで朝を迎えた。いつもより早く出社をし、いつも通り遅くまで会社に居た。帰りにはいつも通り古い音楽を聴いた。それはいろんなことをぼくに思い出させるが、もしかすると、その記憶の色合いや意味合いが、少しずつ、かつてに比べて変わってきているのかもしれない。
 そう、余裕があるわけではない。肉じゃがを温めて食べたあと、明太子と竹輪を肴にビールを一缶あけた。風呂に浸かってシャワーを浴びて、髪を乾かしながら、明日の仕事のことを考えた。明日は在宅勤務だが、タスクは山積している。
 ともあれ居間に降りてくると、少し、文章を書き始めることを躊躇った。何しろ疲れているのだから、音楽を聴いたり、漫才の動画でも観ようかとも思ったが、やはりやめて、2缶目のビールを冷蔵庫から取り出して、ソファに腰かけた。昨日タオルケットにくるまって朝を迎えたのと同じソファだ。ラップトップを開いて、サインインをして、昔の記事を眺めながら缶のプルタブを引いた。そしてグラスに注いだ。泡の音がした。シャッターを閉めた居間、外の音もせず、結句音楽を流すわけでもなく、時計の秒針の音と、泡の音だけがした。そして「しなやかに生きる」と打つ間、少しずつ泡の上る音だけが小さくなって、時計の音は硬いままであった。

 しなやかになんか生きたくはないと思っていた。つまり、まあこれは言葉の定義の話でもあるから大した問題ではないが、むしろそのイメージについて、ある種の嫌悪感を持っていたことは確かだ。響きはよいが、つまりは、小器用に、無難に、角を丸めて暮らすということじゃないか、と。

 ぼくにとって人生は何なのか、と、年甲斐もなく今でも時々考える。そして考える途中で別のことをはじめてしまう。

 若いころ、二十歳あたりのころ、ぼくにとって人生とはきわめて単純なものであった。考えることが即ち人生であった。思考即人生、人生即思考、てな具合だ。もちろん思考の対象は複雑怪奇を極める場合もあったが、しかしそれでもやはり思考対象は単純化されるべきであるという信念があった(これは今もそう思っているけれど)し、したがってぼくにとってぼく自身という存在は容易に説明可能であり、その事実はまた至極当然のように思われた。

 考えることが重要である、という思いは、今でも持っている。これはおそらく、ぼくにとってのある種の宿痾なのだろうと思う。しかし一方では、それだけではうまくいかなくなってきた。なぜか。それは、考えることをやめなければ、どうにも立ち行かないような場合があるからだ。これは偏に、学生時代とは違い、今の自分が社会的諸関係の一部に成り下がった(という表現すら今やぼくにとってはむず痒い)からである。しかしそれは決して自分の意志と裏腹なものではなく、むしろある程度は、予期できていた状態でもある。こうなることは分かった上で、職業選択の自由を行使したのだ。

 且つまた、家庭を持ったことも、大きな変化であったはずだ。妻がいて、子どもがいる。要は、自分を差し置いて優先すべき対象がいるということである。二十歳のころ、「自身とそれ以外」という二元的な世界であったのが、それとは別の存在がそこに登場したのだ。「自身でもそれ以外でもない」ひとたちがそこにいる、あるいは生まれる。暗い部屋の隅で座り込んで長い長い長い時間をかけて考え、そして築いてきた二十歳のころの自己と他者の世界が、その巨大で壮美であったはずの絵画が、雷鳴とともにひび割れ、地響きの中に塗料は剥がれ落ち、そして崩壊したのだ。

 しかしこれはぼくにとって、幸せなのだろうと考える。考え抜いて苦しみぬいた最後に辿り着いたからこそ、それは幸せなのだ。

 今、ぼくは結果して、しなやかに生きようとしている。若かりしころよりも退屈な人間になってしまったのかもしれない。確かに、四六時中自己を誇ることはできなくなってしまった。しかし自分や、自分の周囲にいる大切な人々のため、そして翻っては自分自身のために、時や場所に応じては自分に弾力を持たせることも大事なのだ。

 若かりしころ…若かりしころのぼくには、弾力を自己に持たせるという発想はなかった。それは、滅私することと同義であった。なぜならば、二元的な世界にいたからだ。ぼくはその城の中を歩く靴音の反響を聞きながら、あるいは外からその壁を眺めながら、その美しい、見事な造形に酔いしれていた。それは見事な城であった。しかしだからこそ、その城を賛美するか、否定するか、そのいずれかにしか、結論を見出すことができないでいたのだ。

 当時の自分を否定するつもりは毛頭ない。否定するどころか、ぼくは今でもその聳える城壁を夢に見るのだ。そして目を覚まし、髭をそりながら、記憶を辿ってその土地まで歩んでいく。しかしそこにはもう城はない。その土地は今や、僅かな瓦礫が風に吹かれている、ただの城址に過ぎないのだ。ぼくはネクタイの結び目を絞りながら夏の暑い太陽を見上げる。然しぼくはしなやかに生きていくのだ!後ろめたさはない。

 それは見事な城であった。いずれ、その憧憬すらも抱けなくなるのかもしれない。だからこうして書くことには意味があるのだ。あるいは当時のぼくは、不健全であったのかもしれない。妻は二十一歳当時のぼくのことを、病的であったと振り返る。頬はこけて影が差し、目の周りはどうしてか黒ずんでいた。そうして森羅万象を語るさまは狂気的であったと言う。確かにそうであったのかもしれない。けれども、それは本当に美しい世界であったのだ。

 しなやかさと美しさは両立するのか。ぼくは両立すると信じている。この先時間をかけて、少しずつでも考え続けていくのだ。以前のようにはいかないだろう。脳みそは錆びつき、実際的な問題や関係性は手枷足枷に他ならない。けれども藻掻きながらも、やはり思考をやめてはいけない。止める瞬間があったとて、それは思考の末の無思考でなければならない。無思考を習慣にしてはならない。そうして努めて意識することが、きっとぼくの人生を長く続けていく意味にもなるはずだ。老いた先に、去り行く古城の記憶を遠くに見据え、新たなる城を見出すことができるはずだ。

 今でこそ蜃気楼のように映る、まだ見ぬ城を目指して、時折こうして、青春を振り返ろう。しなやかな日々の中で。

 

2020/05/11

春の実感

 在宅勤務が続く。分厚く塗りたくった真っ青の油絵のような空模様はまるで夏を急いでいるかのようで、ぼくはもう先週末から半袖で、東京じゃ30度を記録したらしい。窓の外では緑の木々がその豊かな葉を揚々と揺らしている。風は甘く香るほどに穏やかで、緊急事態宣言を受けて不思議なほどに閑散とした街並みは心を落ち着かせてくれる。

 病はよくわからないままにぼくの身体から去りつつある。体重は結局8キロ減少したまま戻らない。妻は、元気になったら戻るものだと思っていたと言った。おそらく、在宅勤務のせいで夕食を早い時間にとれるようになったこと、食事の量が以前よりも減ったこと(多く食べない期間が長くなったことで胃袋が縮んだのかもしれない)、そして何より酒をほとんど飲まなくなったことがその理由であると思う。

 とにかくぼくは大学を卒業して以来5年かけて着実に身につけてきた体重をほろんどすっかり落としきってしまった。

 酒は3日にいっぺん、ビールかハイボールを一杯飲むかどうかという程度までに減った。従前は週末になれば大酒を飲んでいたが、その習慣も失われた。実は恢復したあかつきにはきっと心ゆくまで大酒をあおってやろうと気張っていたのだけれど、いざ酒を飲んでみると、それ以上にほとんど欲さなくなってしまっていたのだ。すこし寂しい気持ちである。

 最近はハウスメーカーとやりとりをしている。家を建てるつもりだ。酒を飲まなくなったことは、つまりぼくから金のかかる趣味が失われたことを意味する。家を建てようとするのなら、まあ好都合と言えるだろう。妻も必要以上の贅沢を好まない人なので、ぼくらの健全な生活は比較的、持続可能的なものであると言える。

 横浜駅の東口を出て少し歩くと郵便局があって、それを横目にもう少し暗がりに向かって歩いて行くと、三角地に古い二階建ての建物がある。裏手に回るとロック・バーが構えている。その店を出て、桜木町まで歩いたことがある。深夜だった。電車がなかったから、仕方なくぼくはその女性と歩いた。真夜中、季節は夏の終わりだったと思う。じめじめしていたと思う。首都高を見下ろしたことを覚えている。酒の回った目を細めると、ヘッドライトが糸を引いて美しかった。横浜美術館の正面は広くひらけた土地で、深夜そこに居ることは、とても妙な感覚を齎した。濃い藍色をした、密度の高い暗闇が、沈黙を条件に鎮座していた。ぼくらは美術館の正面玄関の目の前に立ち、振り返って、その暗闇と対峙した。どんな話をしたのかはあまり覚えていない。当時のぼくのことだから、小難しい話をしたんだろうと思う。音楽や文学の話、女性の話や人間の話を。
 しばらく暗闇を前にたじろいで、それからまた、港に向けて歩みを進めた。夜はいつまでも続くように感じられた。公園の芝に仰向けに寝転んだ。隣に女性も寝転んだ。ランドマークタワーが高くそびえていた。少し視線を落とすと、こと切れた観覧車が夜の門番を務めていた。横浜が夜の最も深い場所を、あたかも秘密作戦を遂行しようとしている潜水艇のように、静かに振動しながら、ゆっくりと動いていた。ぼくは少し汗ばんでいた。シャツの背中の向こうに芝の感覚を感じた。彼女がぽつりと呟いた。それはもちろん愛を意味する言葉ではなかったが、その音には愛を感じられた。時折高級車が視界の外で車輪の音を滑らせたが、たしかにその世界にはぼくと彼女しか存在していないようであった。ぼくはこの夜のことをよく覚えている。

 どうして春のこの日にそんなことを思い出したのだろう。