0327blog
2024/05/29
本当の美しさ
2024/05/19
週末の記録
金曜日、静岡で会議が早く終わった。職場に戻れる時間だったが、連れ立った同僚と話をして、それは辞めることにした。彼は北陸の実家に帰るため、新幹線に乗って西へ行ってしまった。ぼくはおでんを食べようかどうしようかとコーヒーを飲みながら考えて、あるいは同じように西に向かって家に帰ろうかとも思ったが、やめて、赴任先の東京の部屋に戻ることにした。大変天気の良い夕方だった。こだまに乗った。カフェで買ったシナモンロールを齧りながら本を読んでいたらあっという間に品川に到着した。ぼくは気まぐれに渋谷に向かった。何日か前に調べたロックバーに行くことにした。そのバーは公園通りを途中に左に折れ、オルガン坂を登った途中にあった。辺りは色とりどりの髪色をした若者ばかりで、スーツを着た人間はぼくを除いていなかった。まるで違う世界に来たようだった。スフィストのガリバー旅行記を思い出しながら、さながらリリバット国の小住民を掻き分けるようにして雑居ビルの前に立つと、2階を指す看板が立っていた。
階段を登るといかにも暗く、壁と見分けがつかないほどの扉があった。その扉を開いて入ると、そこにはこぢんまりとしたバーカウンターと夥しい数のレコードとが狭い空間に並び、その中心に華奢な老人が椅子に座って本を読んでいた。客はいなかった。
二時間半ほどの間に、訪れた客は1人であった。彼はもうすぐ七十だと言った。そしてブライアンウィルソンの気が狂っていた頃の話を教えてくれた。彼は天才だが、天才というのはいつも狂ってしまうのだから大変なんだよな。と彼は言った。マスターは優しい顔をしながら頷いていた。なんだかぼくは恥ずかしい気持ちになった。どうしてだか分からない。とにかく良い時間であった。疲れもあって早い時間に退散した。まっすぐ代々木上原に帰り、日が変わる前には寝床についた。
*
土曜は早く目が覚めてしまい、寝直そうかと努めたが無駄だった。結局昼ごろまで部屋で荷物が届くのを待ってから、外に出た。金曜と同じように、素晴らしい天気であった。ぼくは嬉しい気持ちになった。部屋で荷物を待つ間に、日本近代文学館に行こうと決めた。芥川に関する展示が開かれていることを知ったからだ。部屋を出てから二十分程度で、駒場東大前に降りた。東京大学の構内を通り抜けると、ちょうどその裏側に文学館は位置していた。並木道を歩きながら、三島由紀夫と芥川龍之介のことを考えた。それから、大学の同期のことを思い出していた。彼は東大の大学院に進んだ。ぼくは進学をせず就職をすることにした。文学は実学足り得ないと思ったからだった。
展示は見事なものであった。ぼくは丹念に全ての展示物をじっくりと観た。特に歯車の原稿には圧倒された。結局彼もぼくと同じ人間であったのだ。
文学館を出た後、横浜のロックバーに行った。そこで昔のバス・バーの話をした。マスターは伝説上の店であり、自分は行ったことがないんだよと羨んだ。ぼくは一度だけ女の子に誘われてその店を訪れたことがあった。内装や、その店のマスターの風貌ははっきりと覚えていたが、どうしてその店に行くことになったのか、そこでどんな話をしたのかを思い出すことができなかった。彼女は覚えているだろうか。いや、忘れてしまっているに違いない。とにかく、そのバスはもうそこにはないそうだ。山下公園近くの海沿い、堤防のすぐ手前のようなところにあったように、朧げながら記憶している。蒸すように暑い夏の夜ではなかっただろうか。あるいは全ては夢であったのかもしれない。それほどに幻想的な夜であった。
それから、昔の話をいろいろとした。気がつけばその店に通うようになってから十年以上が経過していた。彼はぼくの健康を案じてくれた。働きすぎちゃダメだよ、深いところでは変わってしまってほしくない、と。
22時過ぎに店を出て、部屋に戻った、やはり24時頃には寝床に入り、眠りについた。その晩は本当に久しぶりに、よく寝れた。
*
三度ほど目は覚ましたが、その度にすぐに眠りに戻り、日曜、起床したのは九時ごろであった。予め決めていた通り、洗濯をして、部屋の掃除をいつもより入念に行った。掃除機をかけるだけでなく、あらゆるものの整理をして、拭き掃除もした。それから月曜以降の準備について整理して、最後に身なりを整えて、部屋を出た。昼前になっていた。
土曜、バーに行く直前に、横浜駅ルミネの地下にある小さな有隣堂で5冊もの本を買ったので、それと、少しずつ読み進めているプルーストとを鞄に入れて、下北沢のジャズ喫茶に逃げ込んだ。日曜は今にも雨が降りそうな曇り空が一日続いた。
ジャズ喫茶は居心地の良い店だった。美味しいコーヒーを飲みながらカレーライスを食べて、昨日買い直した(家にもう一冊ある)歯車を再読した。一気に読み終えると、急に音楽が大きく聴こえるようになった気がした。
その後別のミュージックカフェに入ってビールを一杯とサラダを一皿食べた。
そしてさらに、先日一度訪れた老舗の喫茶店に入り、一時間ほど本を読んだ。
それから代々木上原に戻って銭湯に向かった。ゆっくり風呂に浸かって、その後缶のポカリスウェットを飲んで、帰路についた。
チルドのラザニアを食べて、ソーセージを食べながらビールを飲んで、チーズを食べながらハイボールを飲んで、それでこれを書いている。
本を読もう。本を読もう。本を読もう。
2024/04/11
がらんどう
2023/08/14
静物的なイマージュ(台風がやってくる)
2022/08/17
自分自身について、自分と他者(社会)について
会社勤めをしている中で感じるジレンマについて、ある日落ち着いて考えてみた。正しいかどうかは別にして、少なくとも今の自分にとっては腑に落ちる解釈に半ば至りつつあるようなので、覚えで書き留めておく。この考えを時間をかけてゆっくり深堀るには、最近の日々は忙しすぎるため。(とはいえ、今このタイミングを逃すと、途中まで進めた考えでも、今度続きを始めようとした時点では、もうまったく別の発想が出てきたりするかもしれない。むろんそういったことも念頭に置きながら、書き記す。)
ここでいうジレンマとは、会社勤めをしているときのみならず、社会の中の自分という構図・立ち位置について考えるとき、時折直面するものである。すなわち、社会的正当性(正当ということが確からしいだろう性質)と、自分自身との間に生じる乖離感のようなもので、自分のポリシーとは一致しないが、しかし社会的存在としての自己を重んじれば、取らなければならない選択肢を選ぼうとしている瞬間などに、ぼくの眼前に、そのトゲトゲが現出する。
で、結論から言えば、これはおそらく、自分の内面の整理と、自分と他者との関係性の整理とを考えたとき、それぞれを構成する要素がすべて一致しなければならないのではないか、というある種の強迫観念にとらわれるからではないか、と考える。
つまり、自分自身の中で正しいと思われている様々な考え方(それは外面に表現するものもそうでないものも含め)が、他者(あるいは社会)と自分との関係性においても、必ずすべて同様に、正しいと評価されなければならない、と思い込んでしまっている、ということだ。普段、自分の頭でいろいろなことを考えているようで、ややもすると、あるいは上記のような状態に陥ってしまうようなことは、ぼくに限らず、多くの大人にとって屡々起こりうるのではないか。
一方で、と、ここから、ぼくはその観念、焦りのようなものから抜け出すために一呼吸おいて、「自分の頭で」改めて考えようとした。こういうとき、頭を冷やして、数歩引いた距離から、自分を含む全体を眺めることが大切だ。もちろんこれは比喩で、例の自己の他者性の問題(自己を観察しようとしている主体もまた自己であり、完全な自己の客体化は実現しえない)を孕むわけだが、こういったケースにおいては、あくまで鳥瞰することを意識するということが肝要なので、そこまで厳密な定義は必要がないと考える。
そう、それで何を考えたのか。
話はきっと単純で、「いやいや、すべてが合一する必要はないよ」ということだ。寧ろ、自分の内面における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)と、自分と他者との関係における整理のあり方(あるいはそこで整理される諸要素)とは、多くの矛盾を抱えていても問題はないとも考える。
そういった中で、両領域に幾つかの接点があり、それらの点の色合いが合一していれば、それで全く問題はないのだ。他者・社会は存続するのだし、その中若しくはその対岸に位置するぼく自身も、しっかりと存続していくのである。
こんな具合で解釈すれば、無理なく自然な形で、自分についても、自分と他者との関係性についても、整理することができるように思われる。
加えてさらに言えば、自分自身を整理すること、言い換えれば内省には、すでに前提として他者の存在があるということを忘れてはならない。人が利己的であることはごく自然なことであるが、利”己”という言葉がすでに、「他に対する己」という意味を持っている以上、すでに他者の存在を二項対立的に認めていることになるのだから。言いたいのは、先に述べた「自分の整理」というのは、その時点である意味他者との関係性を予言することを禁じ得ないということだ。
これは一見すると(特に十代のころのぼくみたいな人間に言わせれば)、「迎合である」ように見られるかもしれないが、そうではなく、認識の正しい形での、誠意に満ちた精査であると考える。反対に、先の話に戻れば、自己と他者との完全な合一を信奉し志向することこそがまさに純粋なる迎合と言えまいか。その観点からすれば、自己という言葉が他者を内包しているという解釈は、寧ろ逆説的に(というべきか、構造的に、というべきか)自己の自己性を明示することに他ならない。
以上のような解釈でもって、現時点では、自分自身について、自分と他者についてという問題に対するスタンスを取ろうと思う。
2021/06/24
しなやかに生きる
もう一月もすれば三十になる。ぼくは忙しく働いている。文章を書かなくなった。
文章を書きたいという気持ちは、以前のように持ち続けているつもりだ。常に持っていると言ってもよいだろう。そしてときには筆をとろうとすることもある。けれども書かない。理由は、いくつか考えられるが、厳密には分からない。
今夜は、会社を出るころから、帰ったら何か書こうと考えていて、珍しく実際に、こうしてキーボードを打つことができている。
余裕があるというわけではない。むしろ逆で、いつにもまして忙しい一日であった。夜中三時に息子の咳で目を覚ましてからろくに寝付くことができず、居間のソファで朝を迎えた。いつもより早く出社をし、いつも通り遅くまで会社に居た。帰りにはいつも通り古い音楽を聴いた。それはいろんなことをぼくに思い出させるが、もしかすると、その記憶の色合いや意味合いが、少しずつ、かつてに比べて変わってきているのかもしれない。
そう、余裕があるわけではない。肉じゃがを温めて食べたあと、明太子と竹輪を肴にビールを一缶あけた。風呂に浸かってシャワーを浴びて、髪を乾かしながら、明日の仕事のことを考えた。明日は在宅勤務だが、タスクは山積している。
ともあれ居間に降りてくると、少し、文章を書き始めることを躊躇った。何しろ疲れているのだから、音楽を聴いたり、漫才の動画でも観ようかとも思ったが、やはりやめて、2缶目のビールを冷蔵庫から取り出して、ソファに腰かけた。昨日タオルケットにくるまって朝を迎えたのと同じソファだ。ラップトップを開いて、サインインをして、昔の記事を眺めながら缶のプルタブを引いた。そしてグラスに注いだ。泡の音がした。シャッターを閉めた居間、外の音もせず、結句音楽を流すわけでもなく、時計の秒針の音と、泡の音だけがした。そして「しなやかに生きる」と打つ間、少しずつ泡の上る音だけが小さくなって、時計の音は硬いままであった。
しなやかになんか生きたくはないと思っていた。つまり、まあこれは言葉の定義の話でもあるから大した問題ではないが、むしろそのイメージについて、ある種の嫌悪感を持っていたことは確かだ。響きはよいが、つまりは、小器用に、無難に、角を丸めて暮らすということじゃないか、と。
ぼくにとって人生は何なのか、と、年甲斐もなく今でも時々考える。そして考える途中で別のことをはじめてしまう。
若いころ、二十歳あたりのころ、ぼくにとって人生とはきわめて単純なものであった。考えることが即ち人生であった。思考即人生、人生即思考、てな具合だ。もちろん思考の対象は複雑怪奇を極める場合もあったが、しかしそれでもやはり思考対象は単純化されるべきであるという信念があった(これは今もそう思っているけれど)し、したがってぼくにとってぼく自身という存在は容易に説明可能であり、その事実はまた至極当然のように思われた。
考えることが重要である、という思いは、今でも持っている。これはおそらく、ぼくにとってのある種の宿痾なのだろうと思う。しかし一方では、それだけではうまくいかなくなってきた。なぜか。それは、考えることをやめなければ、どうにも立ち行かないような場合があるからだ。これは偏に、学生時代とは違い、今の自分が社会的諸関係の一部に成り下がった(という表現すら今やぼくにとってはむず痒い)からである。しかしそれは決して自分の意志と裏腹なものではなく、むしろある程度は、予期できていた状態でもある。こうなることは分かった上で、職業選択の自由を行使したのだ。
且つまた、家庭を持ったことも、大きな変化であったはずだ。妻がいて、子どもがいる。要は、自分を差し置いて優先すべき対象がいるということである。二十歳のころ、「自身とそれ以外」という二元的な世界であったのが、それとは別の存在がそこに登場したのだ。「自身でもそれ以外でもない」ひとたちがそこにいる、あるいは生まれる。暗い部屋の隅で座り込んで長い長い長い時間をかけて考え、そして築いてきた二十歳のころの自己と他者の世界が、その巨大で壮美であったはずの絵画が、雷鳴とともにひび割れ、地響きの中に塗料は剥がれ落ち、そして崩壊したのだ。
しかしこれはぼくにとって、幸せなのだろうと考える。考え抜いて苦しみぬいた最後に辿り着いたからこそ、それは幸せなのだ。
今、ぼくは結果して、しなやかに生きようとしている。若かりしころよりも退屈な人間になってしまったのかもしれない。確かに、四六時中自己を誇ることはできなくなってしまった。しかし自分や、自分の周囲にいる大切な人々のため、そして翻っては自分自身のために、時や場所に応じては自分に弾力を持たせることも大事なのだ。
若かりしころ…若かりしころのぼくには、弾力を自己に持たせるという発想はなかった。それは、滅私することと同義であった。なぜならば、二元的な世界にいたからだ。ぼくはその城の中を歩く靴音の反響を聞きながら、あるいは外からその壁を眺めながら、その美しい、見事な造形に酔いしれていた。それは見事な城であった。しかしだからこそ、その城を賛美するか、否定するか、そのいずれかにしか、結論を見出すことができないでいたのだ。
当時の自分を否定するつもりは毛頭ない。否定するどころか、ぼくは今でもその聳える城壁を夢に見るのだ。そして目を覚まし、髭をそりながら、記憶を辿ってその土地まで歩んでいく。しかしそこにはもう城はない。その土地は今や、僅かな瓦礫が風に吹かれている、ただの城址に過ぎないのだ。ぼくはネクタイの結び目を絞りながら夏の暑い太陽を見上げる。然しぼくはしなやかに生きていくのだ!後ろめたさはない。
それは見事な城であった。いずれ、その憧憬すらも抱けなくなるのかもしれない。だからこうして書くことには意味があるのだ。あるいは当時のぼくは、不健全であったのかもしれない。妻は二十一歳当時のぼくのことを、病的であったと振り返る。頬はこけて影が差し、目の周りはどうしてか黒ずんでいた。そうして森羅万象を語るさまは狂気的であったと言う。確かにそうであったのかもしれない。けれども、それは本当に美しい世界であったのだ。
しなやかさと美しさは両立するのか。ぼくは両立すると信じている。この先時間をかけて、少しずつでも考え続けていくのだ。以前のようにはいかないだろう。脳みそは錆びつき、実際的な問題や関係性は手枷足枷に他ならない。けれども藻掻きながらも、やはり思考をやめてはいけない。止める瞬間があったとて、それは思考の末の無思考でなければならない。無思考を習慣にしてはならない。そうして努めて意識することが、きっとぼくの人生を長く続けていく意味にもなるはずだ。老いた先に、去り行く古城の記憶を遠くに見据え、新たなる城を見出すことができるはずだ。
今でこそ蜃気楼のように映る、まだ見ぬ城を目指して、時折こうして、青春を振り返ろう。しなやかな日々の中で。