年だけを重ねている。何も成長していないのではないか?ただのんべんだらりと日々をやり過ごしているだけのような気がしてならない。勿論、単位はそれなりに取っているし、好きなことを勉強するのにも、大きな充実感を感じている。けれどもなんだろう、どういうわけか、実感が無い。つまり、生きているという実感、愛されているという実感。
考えるということと、行動するということについて、昨日アキと話した。彼女は髪を触りながら、女友達の恋愛について愚痴っていた。彼女の言い分にはぼくもおおむね同意した。結局のところ、一般的な恋愛なぞ遊びのようなものなのだ。それをさも高らかなる交渉であるかのごとく振る舞うあたりに、根本的な誤りがある。もし真剣に人を愛そうとしたら、まずもって幸せなどではありえないはずなのだから。
喜びや幸せと言うのは、悲しみや絶望のひび割れた隙間からわずか漏れ出してくる汁のようなものに過ぎないのだ。幸せとはそういうものだ。野球をしていても、イギリスで暮らしていても、無為徒食の日々にも、まさにそう思う。
ただ、ぼくは、行動しなければ考えていないと同様だという思いを口にしたが、彼女はそれを少し違えて捉えているようだ。行動こそが、という意味ではない。その人にとっての思想とは、行動ないしは非行動で以てのみ表現され得るということを言いたかったのだ。行動しないことも一つの表現だ。ぼくがそうであるように、行動によって精神の向上ははかれないと信じる人間も居るということ。
アキと話すのは本当に楽しい。彼女も考えているからだ。そうして何より学がある。彼女と会話をするたび、ぼくは教わっている。そういう感覚を、大学に来てからほとんど感じない。高校のころはNが居た。こういう友人は本当に貴重だと思う。だからこそ腹を割って全てを話してしまうし、それゆえ時には不愉快な思いもさせるかもしれない。
30日から愈々免許合宿である。不肖にして二十二での取得と相成らんとしているが、本をたくさん持っていこうと思っている。インターネットすらない環境だというから驚きだが、それなりに楽しみだ。
二十二歳の抱負は、「懸命に生きること」
ぼくらしからぬテーマである。