フランス語および哲学の教授であるところのK氏と、馴染みのバーが一緒であった。横浜駅東口のバーで、ぼくは気が向くとそこに行ってクリフォード・ブラウンやザ・バンドを注文する。それからウイスキーを頼んで大事に啜るのだ。また行こうと思った。けれどもあの小さな店内で教授と対峙することはいささか畏れ多くもある。
最近は勉強をしている。研究会の最終発表があり、その翌週横浜の個室居酒屋で打ち上げを行った。青い水槽で囲まれた個室で、ぼくらはほとんどはじめて心を許したのではなかったか?しかしそこでもまた、ぼくは陳腐な大衆感情を突きつけられる。帰り道の相模原鉄道、二年の女の子と二人で、酔いどれの世間話にまた、酔いしれた。途中で降りて乗り換えた。そこからは独りだった、すっかり落ち着いて、鞄の中から本を出して読んだ。
勉強?ぼくは大学に入って終ぞまともに勉強なぞしていなかった。ここにきて焦るのも変な話であるが、しかし焦燥は悪くない。昨夜十時まで大学図書室までこもり、帰り道にSと偶然会った。「大阪の飛田新地って知ってるか、一緒に行こうぜ」と彼は言った。ぼくは笑った。彼の話はいつでも面白い。ぼくの興味をかきたてる。
コンプレックスを持つ人間がすごく愛おしい。というより、コンプレックスがない人間はいないのだろうけれど、そのコンプレックスの規模や、それに対する態度だとかで、彼の魅力は左右されるのかもしれない。
Kが最近つまらないのは、そのコンプレクスドな日々に終止符を打って、完全に突き抜けた感があるからだ。おそらくそれは彼の健康にとっては少なからず良いことで、その意味では心から祝福したいと思う。けれども、彼も又ありふれた潮流、味も匂いもない無機質で空疎な潮流に足並みをそろえてしまったことは、何か対岸から見ている人間としては寂しくもあるのだ。ぼくだって、その大きな流れに沿って歩いていることは間違いないし、別の流れに足並みをそろえようともまた、していない。そういう立ち位置にあってさえなお、それはすごく辛いことだ。
「楽しければいいじゃないか」
彼は、彼女は、そう言う。
ぼくはその言葉が一等嫌いなのだ。
金も無く、知識も無く、名誉も無いところで、楽しんでいたって虚しくなるだけだ。
何も批判しているわけではない。ぼくには理解ができないというだけの話だ。大学に行こう。
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