瞬く間に夏が訪れた。大学祭の夜、永遠のような宴に酒を次々仰いで何もかもを忘れようともした。花火の音だとか、それに重なろうとする幾つもの記憶。週が始まってスコールが降った。スコール?地元の知り合いの母親が亡くなった。いろいろなことを考えずにはいられない週末と、月曜の夜、とはいえもうほとんど火曜である。ぼくはまた眠れない。
もし最後にどうしようもないほどの悲しみが訪れるとすれば、いや、それは必ず訪れるものだ。そうだとしたら、どうして人は愛を根拠にできるだろうか。それで幸せなのか。無限の、深い深い悲しみが最後に襲ってくることは自明ではないか?それをしても、それまでの時間の方が幸福であると明言できるか?いや、不可能だ。人の寿命はそれぞれ異なるし、ぼくらにそれを推し量ることはほとんどできない。
幸福というものについてもっときちんと考えるべきだ。「こういうものだから」と言って知りもしないのに行動をとっては馬鹿を見るのだ。ぼくはそう思う。その意味で、行動ありきの経験論が支配している日本の、或いは現代のアカデミズムは理解ができないのだ。高名な教授が言うのだ。「経験こそが命である」と。しかしぼくはそうは思わない。中学三年間を怒涛の中に暮らし、高校三年間を驚くほどの退屈さの中に耐え抜き、そうしたあとに残った思いは、決して経験がものを言うわけではないということだった。そしてこの真理さえも、経験なくして気付くことのできることだとぼくは思う。いや、経験を通してしか理解できないのでは、遅いのだ。人は死ぬし、夏は過ぎていく。
近所のおばさん、すごくよくしてくれた。多くの言葉を交わした記憶はないが、それでも優しく、小学生であったぼくらを見ていた。良い人であった。早逝すべからざる人が逝き、ぼくのような愚鈍で矮小な若造がのうのうと生きている。これを見て何も感じないはずがないのだ。ぼくは生きなければならない、それもまともに、生きる必要がある。
ぼくは自分のことを一等正しいなどとは思っていない。正しくありたいと思うだけであって、唯一ぼくの言論の中で正当性に自信を持てるのは、この一点のみなのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿