2014/07/11

二年前に書いた文章の断片

いろんなことを考えながら歩いているうちに、背中に少し汗をかいていた。駅に降り立った時には寒くてパーカーを羽織ったものだったが、坂道を上り続けているうちに体は温まっていたのだ。時刻は八時をまわった頃だ。僕の精神はすっかり夜の闇に鎮められているように感じる。ポケットの中に手を突っ込むと、鍵と小銭とが擦り合う音がじゃりとした。僕はその、現実的な金属の音が嬉しくて、じゃりじゃり、と立て続けに鳴らした。鍵は勿論、僕が一人で住んでいた部屋のものではない。そんなものを持ってくる必要はないからだ。

「ハイセンスな女の子なんて存在しない。ハイセンスはいつも男性の中にしかない。」と、高校時代の彼女は言った。自転車の鍵を頭上に高く投げて、それをキャッチする。そんな造作を繰り返しながら、彼女は僕と一緒に歩いていた。

僕が黙っていると、「あたしにもセンスはない。分かるのよ、ただ分かるの。」と彼女は続けた。「そして、年を取るにつれてますますつまらないことになってしまうの。」

今のことは知らないけれど、僕は当時の彼女のことを、センスのある女の子だったと思っている。けれども、彼女の言うこともある意味正しいのかもしれない。だって女の子である彼女が言うのだから、それは僕の考えよりも信憑性があると考えるのが至極普通だろう。

「どうして女の子にはセンスがないの」と僕はその時尋ねた。今でも覚えている。高校からの帰り道だ。ほとんどの生徒が通る、高校の前の坂道を途中で右に折れると、静かな住宅街に入る。その道は逆にほとんど人通りが無くて、僕らはよくそこを通って帰った。駅まで行くには遠回りになってしまうが、途中に小さな公園があったり、昔ながらの駄菓子屋さんがあったりして、僕はその道が好きだった。その道でまさに彼女は、「きっとね、それは仕方ないことなのよ。女性の美しさを男性が持ち合わせられないように、それは無条件なことなのね。」と言った。直後に漏らした彼女の微かな溜め息は、僕がこれまで聞いた中で最もハイセンスな溜め息だった。

鍵、と僕は思った。彼女の鍵にはしし唐のキーホルダーが付いていた。とてもハイセンスだ。


僕が今握っている鍵は、向かっている別荘の鍵だ。祖父の別荘。父親が子供の頃は、夏休みになるとよく家族で出かけたのだという。川で遊んで魚を釣り、夜になると焼いて食べた。音楽をかけてカードゲームを遊び、二週間ほどはそこにいたのだ、と。父親とその妹が成長するにつれてそこに訪れる機会は減ったのだ、と祖父は先日話した。僕は一度その別荘に訪れたことがあった。それは高校一年生の時で、友人と二人で東日本を一周したときのことだった。都内から鈍行列車で遥か離れ、途中に寄ったのだ。三日間、僕らはその別荘に滞在した。友人はコウムラという男で、高校を卒業し、東京大学に合格した年の夏にグアテマラで死んだ。南米に旅に出かけている最中に入ったレストランで、たまたま爆発テロが起こったのだ。運の悪いことに、グアテマラというのはたまたまテロの起こるような国であった。彼を含めて、レストランの中にいた人間は全員死んだのだという。彼はスタインベックの好きな男だった。「なあ、お前にはセンスがある。」と、コウムラは僕に言った。「ただ、勇気がないだけだ。」

僕にはやはり勇気がなかった。だからこそ今、この湿った林道をとぼとぼと歩かなければならないのだ。別荘の鍵は何の変哲もない、普通のなりをした鍵だ。アクセサリも何もない。夜はすっかり密度を増して、もうすぐ別荘に辿り着こうとしている僕の背筋をしゃんと伸ばす。咳払いをすると、夜の空気に少しだけ響いた。

2014/07/08

疑心

 ぼくは甘い。自分にも甘いけれど、こと女の子には甘すぎるくらいに甘い。けれどもそれは優しさとか寛容さではなくって、ぼくは結局のところ、彼らについてほとんど諦めているということだ。もう期待することは止した、まあ実際の話、まだきちんと諦めきれてはいない。けれどもそれだって時間の問題のはずだ。少しずつ染みこんでいく、ぼくはもう彼女たちのことを信じない。だから甘くなっていく一方だ。大抵の裏切りや嘘では傷つかなくなるだろう。その代わり愛することもできなくなる。それは抗いようのないことだったのだ、ぼくが信じて、彼女らがそれに背く限り、ぼくはそういった道を辿らざるを得ない。これは自明だ。

 どうしてそんなに優しいのかしらと言った女の子が居た。ぼくは当時、自分のことを優しい男だと思っていた。けれどもそれは幻想なのだ。もし次会うことがあれば告げるだろう、ぼくはこれっぽっちも優しくはないのだと。きみに対して誠実ではあれなかったのだと。ぼくは最後まで、自分に対する誠実さで精いっぱいだったのだ。誠意の絶対量は決まっているのかもしれない。それを全て自分に注いでしまったのだ。

 *

 久しぶりに晴れたから、早い時間に部屋を出た。大学でこれを書いている。平和な午前だ。おろしたてのTシャツは柔軟剤のいい匂いがしている。匂いが好きだと言われる、それは何の匂いのことだったのだろう。雲はうんざりするぎりぎり手前のところ、絶妙な穏やかさでゆっくりと過ぎていくし、学生は皆晴れやかな顔をしている。ぼくは友人を待ちながらいろんなことを考えている。考え事は浮かんでは消え、また浮かぶ。いろんな人のことを、いろんな自分のことを思う。

 *

 憧憬はある。ぼくが発しているそのもののぼくを、まったく同じニュアンスで受け入れてくれるような状況、そうしてぼくも又、彼女のことを、同じように信じるだろう。そういったケースがもしあったらどれだけ安心できるだろうと思う。けれどもおそらく、そんなのは有り得ないのだろう。わずか残る微かな希望にも、ぼくは縋るのが心底恐ろしくて仕方ない。もう本当に、ぎりぎりのところなのだ。余裕のある男性になりたいと常に思っている。時間に、金に、生活に。けれどもぼくには余裕はなかった。いや、物質的にではない、ただそれよりももっと根本的な部分において、ずいぶんと窮屈な思いをしていた。真皮が爛れている。ぼくにはそれを感じることができる―火傷のような痛みだ。

 *

 悲しみは水のように、さらさらと流れている。擦りむくと血が出るように、ぼくは水のような悲しみを垂れ流しているのだ。それが尽きることはない、水脈はぼくの底の無い絶望の先まで続いている。逆立ちしたって、どれだけ美しい女の子と寝たって、それを止めることは出来ない。であれば、ぼくはそこに甘んじるしかないのか?どうなのだろう、悲しむことはつらいことだ。もしも本当に、何も言わない温かさがあるのなら、いや、うーん、駄目だ。研究会のことをしこしこと続けることにしよう。埒なんてそもそも明くるものではない。根なぞ無い。気の毒な男である。

2014/07/01

屁理屈マン

『生きのびているのは、馬鹿と、ならず者だけである。』



 講堂の窓から青空が見える。前の黒板には今日の授業が休講になった旨が稚拙な筆致で記されていて、だから堂内は数人の暇な学生が点々としているだけでがらんどうだ。ぽっかりと空いた空間の心地よさに酔ったまま、彼らはぼんやりと各々の所作にふけっている。ぼくもその一人だ、縦長の窓の外をぼんやりと眺めながら…およそ果てのない憂鬱な思索を試みている。
 食堂に行けばいつものように仲間が談笑に食事を摂っているはずだが、思うようにぼくの気持ちはそこへは行かない。どうにもうんざりとした心持のまま、数十分の間を自慰のような空想に充てている。空調の効いた室内。

 …大学創設者の著作を読んだことがない。ある教授がうんたらのすゝめという世に言う名著を講義で薦めていたが、ぼくにはどうにも読む気が起きなかった。「先生の本を一読しておくことは、本学の学生としては大いに価値のあることだ」と彼はのたまった。そう言われてしまっては読むわけにはいかないのだ。無論その名著たり、又少なからぬ真実を孕んでいることには特に疑いもしないが、しかしだからとて、それを読んで新しい発見があるかといえば、そうも思われない。第一ここの学生に学問の匂いを感じたことはほとんどない。ぼくもそうだ。



 人間の行動の源泉に感情を認めたくはない。そこには常に理性の介在を保障したい。つまり、確かにぼくは感情を認めたい、感情がなければ生きる価値などないからだ(画一的な世界になってしまうということだ)。しかし人として生きる上では、やはりその感情を包含するような理性の発揮が不可欠であることは、構造上ごく自然にして、又、定義上も正当かつ絶対であることは明々白々たる真実に他ならなかろう。人間にとって、感情は核にはなりえない。それはあまりに古すぎる。

 その意味で、人間である以上、ぼくは考えることから逃れたくはない。従えば、その半ば本能的な衝動(感情と本能は本質的に異質のものである)こそが、ぼくの誠実さへの憧れを成り立たせている。誠実さとは考え抜くことに相違ないのだ。自分に対して、相手に対して、あるいは世のあらゆる要素に対して、常に愚直なまでに考え、そのために働きかけることだ。

 ところがどうして、世の中には頭を使わない人があまりに多いように思われる。彼らはもう一歩、二歩先を考えれば、あるいは、もう三秒頭を使えば踏み外さなかったろう。 しかし一度過ちを犯したなら、たいていの場合、もう取り返しはつかない。ここにこそ、ぼくの経験を否める所以がある。経験には価値はないのだ。

 ぼくの言う経験とは、理性の外で行われる経験のことだ。

「経験しないとわからない」という人が多くいるが、果してその根拠はどこにあるのか?経験をしなくてもわかることはたくさんあるし、そういった認識を持たないで無駄な経験をすればするほど、彼はどうしようもなくすり減り、人間としての正しさを失っていく。

 だからぼくは、若気の至りという言葉も嫌いだ。若かろうがなかろうが、考えればわかることは常に同じだ。経験や知識に基づいて言葉を連ねる人間は信用ならない。彼らは無責任だ。いつでも他者の中でしか語ろうとしない。結局のところ、彼らは考えるのが怖いのだ、あるいはもっとひどい場合では、彼らには考えるという能力が根本的に欠落しているのだ。



  経験や行動は、考え、疑い、認識の底を触ったときにはじめて、その意味を生む。



 窓の外に薄らと雲がかかり始めている。雨が降らないうちに部屋に戻ろうと思う。酒屋で安いウイスキーとビールを買って、今夜もゆっくりと本を読もう。こういった日々が、ときにはあったっていいじゃないか。