『生きのびているのは、馬鹿と、ならず者だけである。』
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講堂の窓から青空が見える。前の黒板には今日の授業が休講になった旨が稚拙な筆致で記されていて、だから堂内は数人の暇な学生が点々としているだけでがらんどうだ。ぽっかりと空いた空間の心地よさに酔ったまま、彼らはぼんやりと各々の所作にふけっている。ぼくもその一人だ、縦長の窓の外をぼんやりと眺めながら…およそ果てのない憂鬱な思索を試みている。
食堂に行けばいつものように仲間が談笑に食事を摂っているはずだが、思うようにぼくの気持ちはそこへは行かない。どうにもうんざりとした心持のまま、数十分の間を自慰のような空想に充てている。空調の効いた室内。
…大学創設者の著作を読んだことがない。ある教授がうんたらのすゝめという世に言う名著を講義で薦めていたが、ぼくにはどうにも読む気が起きなかった。「先生の本を一読しておくことは、本学の学生としては大いに価値のあることだ」と彼はのたまった。そう言われてしまっては読むわけにはいかないのだ。無論その名著たり、又少なからぬ真実を孕んでいることには特に疑いもしないが、しかしだからとて、それを読んで新しい発見があるかといえば、そうも思われない。第一ここの学生に学問の匂いを感じたことはほとんどない。ぼくもそうだ。
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人間の行動の源泉に感情を認めたくはない。そこには常に理性の介在を保障したい。つまり、確かにぼくは感情を認めたい、感情がなければ生きる価値などないからだ(画一的な世界になってしまうということだ)。しかし人として生きる上では、やはりその感情を包含するような理性の発揮が不可欠であることは、構造上ごく自然にして、又、定義上も正当かつ絶対であることは明々白々たる真実に他ならなかろう。人間にとって、感情は核にはなりえない。それはあまりに古すぎる。
その意味で、人間である以上、ぼくは考えることから逃れたくはない。従えば、その半ば本能的な衝動(感情と本能は本質的に異質のものである)こそが、ぼくの誠実さへの憧れを成り立たせている。誠実さとは考え抜くことに相違ないのだ。自分に対して、相手に対して、あるいは世のあらゆる要素に対して、常に愚直なまでに考え、そのために働きかけることだ。
ところがどうして、世の中には頭を使わない人があまりに多いように思われる。彼らはもう一歩、二歩先を考えれば、あるいは、もう三秒頭を使えば踏み外さなかったろう。 しかし一度過ちを犯したなら、たいていの場合、もう取り返しはつかない。ここにこそ、ぼくの経験を否める所以がある。経験には価値はないのだ。
ぼくの言う経験とは、理性の外で行われる経験のことだ。
「経験しないとわからない」という人が多くいるが、果してその根拠はどこにあるのか?経験をしなくてもわかることはたくさんあるし、そういった認識を持たないで無駄な経験をすればするほど、彼はどうしようもなくすり減り、人間としての正しさを失っていく。
だからぼくは、若気の至りという言葉も嫌いだ。若かろうがなかろうが、考えればわかることは常に同じだ。経験や知識に基づいて言葉を連ねる人間は信用ならない。彼らは無責任だ。いつでも他者の中でしか語ろうとしない。結局のところ、彼らは考えるのが怖いのだ、あるいはもっとひどい場合では、彼らには考えるという能力が根本的に欠落しているのだ。
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経験や行動は、考え、疑い、認識の底を触ったときにはじめて、その意味を生む。
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窓の外に薄らと雲がかかり始めている。雨が降らないうちに部屋に戻ろうと思う。酒屋で安いウイスキーとビールを買って、今夜もゆっくりと本を読もう。こういった日々が、ときにはあったっていいじゃないか。
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