2017/07/01

或文章

 入社以来初めての異動が近づいてきたので、独身寮の部屋を片付け始めた。土曜の朝、押入れの中に原稿用紙の束を見つけた。高校・大学でよく用いたもので、懐かしんで頁をめくると、高校時代に書いたある文章であった。

 それは、母方の祖父の葬儀を終えた直後に書いた、短い文章であった。高校二年の春、両親と弟が日本に帰国して少し経った頃のことだった。

 冒頭、ある景色の様子が描写されている。

「地平の彼方にはるかなる大河が流れている。それは向こうからこちらに向かって流れている。大地は黒く、斑に苔が生えている。足元だけを見れば宛ら月面と言ったところだ。さて、大河は、しかし実際には流れていない。なぜならば凍り付いているからだ。それは氷河であった。他にあるのは空だけである。苔むした黒い大地、白く澄んだ大河、そして広がる青空。それだけであった。それだけがまさしくその場所を占有していた。ぼくは偶々、現在そこに訪れているだけの存在であり、次の瞬間にはまた移動する部外者であるに過ぎなかった。妙な気分である。そこに立っているという意味において含まれていながら、しかしどこか第三者的な実感があった。衛星写真でも見ているかのようだ。」

また、以下のように続く。

「大地は静まり返り、大河は時に関わらず凍り付いている。空が流れ、苔をささやかな風がそよぐだけだ。その些細な動きは、まるで止まっているようでさえある。つまり、動いていることと止まっていることとが、ぴったりと一致しているような、そんな感覚にぼくは感激する。」

「祖父の葬儀の間、ぼくはそんな思いを抱いていた。」

 電球のひとつ切れた独身寮の部屋でこれを読むなり、ぼくは懐かしい気持になった。景色はアイスランドで見たものとほとんど一致していた。死について、あるいは同時に生について考えたことを思い出した。このあとぼくは、高校三年から予備校時代、大学時代と、芥川の晩年作にのめりこんでいく。その兆しのようなものを、今になって見出せる。
 祖父はある意味では静かな、またある意味では激動の人生を生きた大正人であった。ここに詳細を記すことはしないが、そのような旨もかの文章には書かれている。

 原稿用紙が失われてしまわないとも限らないので、印象とともに当時の文章の断片を以上のように残すこととする。

2017/03/20

春の悲しみ

 冬が終わって春がはじまろうとしているこの時季に抱く、えも言われぬ感慨も、毎年のことだなあと思うほどには長い時間を過ごしてきているようだ。昨年も、一昨年も、その前も、四月の芽吹きを前に、ぼくはこうして一人で、言葉に出来ないような気持に苛まれていた。一見美しい草花には透明で細かい棘があって、触れれば忽ち痺れてしまう。ぼくは毎年、分かっていながらそれに触れることを禁じ得ない。

 理由の判然としない―厳密に言えば、判然としないほどに、あるいは存在しないほどに遠く離れた場所に理由を置くような―悲しみが、ぼくの生活の隅々を満たしている。それは音楽のように、耳を塞げば逃れるものでもなく、ガスのように、壁を隔てれば避けられるものでもない。ぼくがそこに意識を持って居る以上、悲しみは止めどなく溢れ続ける。


2017/02/19

考えることについて⑴

 大学を卒業して二年近くが経って、ゆっくりと物事について考えることが減ってきている。時間に追われることにも慣れ始めて、考えないということが苦しみを伴わなくなってきた。
 一方で、確かに学生時代のぼくは、考えることを重んじていた。言うなれば、考えることに対して異常なまでの執着を持っていた。人に曰く、「病的」なまでの執着だったそうだ。
 今でこそ、考えることから離れた生活に違和感を覚えなくなったが、その執着していた自分を確かに記憶している。そうして、そこまで拘泥したことには、おそらく何らかの意味があったはずである。とすれば、このまま「考えること」から遠ざかり続けることは避けなければならないのではないか。つまり、意識的に考えることに立ち戻る必要があるのではないか。と、そんな風に考えた。
 考えることとは、学生のぼくにとって何だったか、今一度思い出してみたい。
 
 思うに、ぼくにとっての「考えること」は、文章を書くこととあわせて生まれてきたことのように感じている。
 中学一年の終わりにイギリスに渡り、二年余の間、ぼくは海外での生活を過ごした。学校には千人を越える生徒が在籍していて、そのうち日本人はたったの数人しか居なかったから、必然的に、日常は英語に囲まれ、自身も英語を用いて暮らしていた。
 英語は決して退屈ではなかった。今でも思うけれど、語学には比較的肌が合っているようだ。
 一方で、やはりストレスというものもあったのかもしれない。自分の表現に対するジレンマからか、ぼくは自然に、日本語で文章を書くようになっていった。それは日記のような形式をしばしば取っていた。そして、取るに足らない内容のものがほとんどであった。
 文章を書くということは、自分の考えをある一つの形式にまとめあげるということである。暮らしていくにあたって、考えは漠然としていてもある程度は許されるが、これを文章にしようとすると、少なからずはじめから終わりまで、一連の流れを持った形式を取らざるを得なくなる。文章を書くようになって、ぼくは物事について考えるようになったようだ。それまでは散り散りに浮かんでいたアイデアが、文章という形をとるために一カ所に集められて、パズルのように前後、左右、上下に組み合わされて、より印象的なものになる。考えることの喜びを知るまでに、そう長い時間はかからなかった。
 文章にしたイメージの中で記憶に残っているものがいくつもある。そういったものは実際の自分の経験と比べても全く見劣りしないほどに、強烈なインパクトを持っている。これは不思議なものだ(経験について考える上でのひとつのヒントになる)。

 経験について少し書くと、ぼくには、経験というものがとても脆いものに見える。そのひとつの根拠が、たったいま書いたように、自分の経験とは別にイメージしたものが、経験と同等の、あるいはそれ以上の影響を自分に齎すケースが少なくないからである。

 行動の根拠になるものは認識だ。認識とはつまり、精神性といってもいいだろう。けれども、行動が認識の根拠に即ちなるかと言えば、これは少し違うのではないかと思う。つまり、認識と行動というのはしばしば表裏一体であるかのように論じられるけれど、実は違うのだ。認識は行動を包括しうるが、逆はあり得ない。従って言えば、自らの行動や在り方、つまり方法を決定する根拠として、経験を置くというのは、邪道である。
 勿論、経験は認識を養う上において重要な要素になることは間違いない。けれども、ぼくの思うに、あまりにこれが絶対視されすぎているのではないか。端的に言えば、現代社会において経験は盲目的に信仰されていると言ってもよい。これはあるまじき姿だ。

 経験というのは即時的に有効なものではない。経験に何かを加えることによって、そこから滲み出てくる副次的なものが、はじめて有意義なものになりうる(ならない場合もあるし、それは寧ろネガティブなものかもしれない)のであり、まさにこの加えるべき「何か」こそが個々人の認識なのだ。同じ場所、同じ時間にまったく同じ出来事に遭遇しても、誰がそこにいるかによって影響が全く異なるのはこのためなのだ。つまり、成熟した認識の前にこそ、経験は意味を生むのである。

 ここからも明らかであるように、認識は経験に先立つものであり、然らば、認識を正しくさせる上においては、経験だけでは足りない。いや、敢えて言えば、経験がなくとも、認識は正しくあり得る。想像することが大事だ。

 いずれにせよ、ぼくは文章を書くことで考えることを始めた。帰国後、高校生になると、書くことに加えて、読書もするようになった。古本屋に通ってはありとあらゆる文章を読んで、影響を受けた。あるとき、これはもう十年近くも前なのにありありと思い出すことができるけれど、カミュの異邦人を読み終えたとき、ぼくは、死に近づいていることを感じた。翌日学校で同級生のNに「本を読むことで死に近づいているように思うんだ」と告げると、彼はおれもそう思うと言った。Nはよく本を読む男だった。
 ぼくは文章を書き続けた。
 浪人時代に、人間について考えた。ぼくは芥川龍之介の晩年作を中心に、相も変わらず古今東西の小説を読み続けていた。どうして人間について考えたのかは思い出せないが、とにかく考えた。
 ぼくが至ったのは、相対的な表現にしかならないけれど、「人間とは考える生き物だ」ということである。
 人間の脳の特徴は、高度に発達した大脳新皮質だ。人間を人間たらしめているのは、まさにここであると考えた。この大脳新皮質は人間の理性を司っている。人間には洗練された理性が備わっていて、逆を言えば、人間以外に、この理性を持っている存在はない。すなわち、人間らしくあるということは、理性を発揮することに他ならない、とぼくは確信したのである。今思えば、これはその後のぼくにとって大きな発見であった。受け売りではなく、自らの認識の上に立って触れた、唯一無二の発見であったかもしれない。それが当時のぼくにとって衝撃的であったかそうでなかったか、ぼくはもう思い出すことができない。

 理性の発揮とは何か、それはまさしく「考えること」だ。パスカルの有名な一文の真意について、ぼくは如何なる立場も取らないが、いずれにしても「考える」ことが人間の能力であるのと同時に使命であることは、間違いないのではあるまいか。

 ぼくの理解について記すための一助として、中学時代に与えられた一文を思い出しておこう。
 当時ぼくは十三歳、中学一年の終わりに渡英したことは前述したが、ぼくは二つの学校に通っていた。平日は現地校に、それと共に、毎週土曜には日本人補習校にも通っていたのだ。初めての登校は時期もあって春休み直前、日本でいう学年末の最終日であった。当時中学一年の担任はI先生という男性であった。彼は何年かその学校に、本職の傍ら勤めていたそうであるが、たまたまその日を最後にアメリカに渡ってしまった。そのため、ぼくは彼とは、その日にしか会ったことがない。
 彼は一日の最後に、黒板代わりのホワイトボードにある文章を書いた。

「本質を見よ」

 そうしてぼくらの方に振り返り、本質を見ること、これを大事にして下さいと言った。ぼくたちは(あるいは少なくともぼくは)理解が出来なかった。それでも、今も鮮烈に思い出すこと出来るのは、やはりこの言葉に大きな意味があり、それを当時、ぼんやりではあれ、感じ取ったからだろう。今になって思うのは、これこそが考えることの真髄であるということだ。まさしく考えるということは物事の本質を探求することに相違ない。

 考えること、本質を見ることこそ、人間として正しく在るための方法なのだ。

 戻るが、高校時代の級友Nとぼくとは、当時、十七、十八のころに「本を読んで死に近づく」感覚に触れた。人間は考えるものであり、即ち人生が考えるための時間であるとすれば、考えることは人生を過ごすことである。死に近づいている実感、これは小川の流れに手をひたしたように冷たかったはずだ。まさに実感であった。ぼくたちは肌で人生を感じたのだ。生が少しずつ死に向かっていくことを、感じたのである。


 考えることについて記した。続いて、考えることの具体的方法論について書く必要がある。今まで書いたことは、読めばとても抽象的な論に過ぎない。生来的に人間が考えなければならないというのは、前提論だ。しかし考えることによって何が齎されるのか、考えるというのはどういったことなのか、翻って論じなければ、ぼくの考えることに対する執着を改めて説明できたとは言い切れないだろう。感覚をきちんと文章にしてみよう。それがまさに理性的な生活であるはずだからだ。思いがけず、これはぼくにとってある種人間としてのリハビリと化しているのかもしれない。

2017/01/22

大寒

 あ、と、声ならぬ声が、乾いた喉の奥から鳴った。朝方抜けていた青空は藁半紙のように黄ばんだ薄雲に隠されて、私は喫茶店から部屋に戻り、ジーンズを脱いで毛布にくるまっている。ふと思い立って、かつてよく聴いていた音楽を流しながら、ベッドの中で文章を書いている。もう六年近くも前のこと、震災のあった直後、ぼくは湘南のアパートの一室で、家具も揃わないうちに音楽をかけて過ごしていた。大学の入学式が震災の影響でひと月遅れることが分かったのは部屋の契約を済ませた直後だったために、上京を遅らすことも出来なかったのだ。私は故郷を離れてリュックサックを背負い、新横浜で乗り継いで部屋にたどり着いた。

 過去にとらわれることについて、また、過去そのものについて、古今東西津々浦々の人々は考え表現し評価してきた。少なくとも私の周りにおいて、昨今の傾向として、過去にとらわれることは弱さに負けていることであり、かつ負けてしまっては不可ないという前提がある以上、それもまた不可ないことであるとされがちである。

 しかし私はずっと、それは入学前、薄暗い部屋で本棚を組み立てていたあのころよりもずっと前から、過去についてあえて執着してきた。何故ならば現在の(この文章を書いている時点での)私とは、それ以前の(つまり例えば、毛布に潜るまでの全ての)過去の積み重ねであるからだ。こういった趣旨の文章弁論をもう数えきれないくらいに繰り返してきたが、自分について考えることは、とりもなおさず過去について考えるということなのだ。然らば過去とは蔑ろにしてよいものか?勿論駄目だ。だから私は、過去の音楽を聴くのだ。

 まあよい。大学を出て二年近くも経つとは思えないが、しかし確かに時間は過ぎていったのだ。


 何も今の状況に満足していない訳ではない。むしろ大変満足している。しかし心のどこかでは、何か煮え切らないものが瘡蓋のように張り付いていて取れない。それは容易には表現のしようもない、わずかな違和感が幾重にも凝固して慢性化したような、気怠いものだ。目にも見えなければ、直接的に感じることも出来ない。

 私は如何したいというのか。


 確固たる意思もないままに毎日を徒に過ごしている。くそ、こんな文章を書くつもりではなかった。如何してしまったというのだろう。昨晩はローマの休日を十余年振りに観た。面白かったが、面白いだけであった。