丘陵の緩やかな坂道をゆっくりと歩き続けている。冬でも、もう春が近づいてきているので、うっすらと汗ばむ。綺麗なコートは今年新調した。空は晴れていて、穏やかだ。
ふと、強い風が瞬間、吹いた。ぼくは思わず足を止めて、風下を振り返る。背後にはもちろん、緩やかな坂道が下っていて、うねったりまっすぐだったり、とにかく長い道が向こうまで続いている。それは地平線の向こうに巻き込まれていく訳ではなく、ただずっと続いている。視力の耐えられないほどに離れたところから霞んで、その先は見えない。凝視しているとまたふっと風が吹いて、ピントがずれて、我に返るのだ。
そう、ぼくはずいぶん遠くまでやってきたようだ。
かつてぼくは、留まっていると思っていた。
ぼくはじっと、ずっと、十何年も同じところで立っているだけだった。そうしていろんな出来事があったり、いろんな女の子とすれ違ったりしてきた。ぼくだけが此処に居て、それらはポロポロと崩れていったり、彼らはぼくを追い抜いていったり、彼女らはすすり泣きながら背後へと消えていった。何もないところでぼくは此処にひとりきりであった。
いや、あるいは、それは今でも変わらないのかもしれない。ずっとそこに居続ける自分が在りながら、一方で、違う意味において、ぼくは少しずつ動いているのだ。例えば、在る大きな天体が自転していてそこに留まり、その周りに衛星がぐるぐると公転していて、さらにその外に、外殻に…そうしてその系は、全体としてゆっくりと動いている。そんな感じ。
遠いところにやってきたように感じるのに、住んでいる街や、毎日会話をする相手は、驚くべきことに十年以上前と同じだ。十年かけて、ぼくは公転をして、此処に戻ってきたのだろうか?そもそもこれは回転なのだろうか?往復なのだろうか?それとももっと難しい関数が潜んでいるのか?あるいは散文か?ワルツか?酩酊か?錯視か?
言葉というのは難しいものだ。結局そういったことだ。十年前から言葉についていろんなことを考えるが、上手く行かない。恋文ひとつ満足に書けない。言葉がよくても文字が歪んでいるみたいだ。ときには声色が気に食わない。
まあ何を書きたいかと言うと、ぼくは此処にいるということだろう。それだけだ。いやあね、こう書くと格好つかなくて、本当は啖呵をきったら沈黙するのが一等いいのだけれど、説明するならば、此処にいるというのは、ただ此処にいるという意味ではない。いろんな要素があって、それこそ、たとえば迷いや苦しみがあって、でもそれをいとわずに、ここにいるということだ。そうだろう。そうだ。
ぼくはこうやって生きてきたし、それは今だって変わらない。これは自己暗示なんかじゃ決してない。誓おう。「自分でそう思い込んでるだけじゃないか」という気持も分かる。でもね、ぼくは、やっぱり、本当のところは、自分でしか分からないし、自分こそが分かると思っている。だからこそ、ぼくは変わっちゃあ、いないと言うのだ。中学の頃も、高校の頃も、浪人生の頃も、大学生の頃も、もちろん今も、同じ考え方の中で、その時々に寄って鈍色だったり彩色だったりするけれど、でも、全部一緒だ。心配することはない。
風が強い夜だ。名古屋は今夜は嵐らしい。音楽を聴きながら、いつも通り文章を書いた。また次も書くだろう。そうやって暮らしていくんだ。
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