2013/11/29

Guaranteed

 保障された生活は詰まらないと思う。無骨でざらざらとした生活を営みたいと思う。それが若さと言うものではないか。三島は言う、若さが幸福を求めるというのは、すなわち衰退であると。ぼくは人間として在り続けるため、或いは、衰退しないためにも、洗練された世界から隔絶されたいと強く望むところだ。けれどもその反面、まさしくぼくはスーツを二着新たにあしらえ、あろうか就活サイトに快く会員登録まで済ませる始末である。
 理由はふたつある。両親を悲しませたくないのと、愛する女性と生活したいこととだ。強烈なジレンマがある。ハーブティーから立ち上る湯気を眺めながら考える。ぼくはパンツ一丁だ。着古したトランクス姿、首にくるりのハンドタオルを掛けている。古今東西の音楽を大きく流しながら、セブンイレブンのスモークチーズを齧る。ぼくの求めているものはなにものなのか。それさえ掴めないのに、何が主張だろう。若者の主張ほどに空疎で安いものはないだろう。例外的に、いわゆる社会的大人の一見大人びた思想に比べてみれば、無論はるかまともな論であることは確かであるが。

 大学四年になったら、本格的に旅をしようと思っている。一人でだ。国外に行くつもりはない。国外に行く必要がないし、寧ろそこにはたぶんなノイズが想定されるからだ。ぼくが行うのは観光ではない。しかしまた、いわゆる自分探しの旅でもない。呼ぶなれば、これはぼくがぼく自身を完結させるための、旅とも呼べぬ、ある種の放蕩となるに違いない。

 これまで幾度も同じような旅を繰り返してきた。それぞれにそれなりの結果は伴った。しかしその挙句として、あくまで悪い形ではなく、ぼくは現在、ある種の自己拘泥をさらに深めんとしているさなかであることは否めない。然りてぼくは思うのだ。もう少し長い時間、ゆっくりと足を動かすことが重要であると。そうしてぼくはぼく自身を完結させることができる。

 バッターボックスに立って投手と対峙するとき、ぼくはいつも「間」のことを考える、ま。ぼくはネクストサークルから歩いてボックスに向かうが、その時、その場は無論バッテリーによって支配されている。彼らの空気を割るようにしてぼくが入るのだから、完全に招かれざる客といった役回りである。捕手がサインを出し、投手は頷き、モーションに入る。ここでもまだ、ぼくは第三者だ。ようやくボールが投手の手から離れた瞬間、そこにぼくはつけ入る。ボールが誰のものでもなくなった刹那、ぼくの腹の前を通り過ぎていくまでのあいだ、その場の支配権は、うまくいけばぼくに渡されるのだ。ゆっくりと足をあげて、下半身に連動させるような形で上体を後ろ向きにためる。ボールの動き、回転に合わせて体を滑らかに動かすと、ぼくの眼前にその球が訪れるころには、無理なく自然な形で、バットがそこに出されている。

 間。

 旅というのはぼくにとって、こういったものなのだ。
 そうしてその間は、あとわずかしかないかもしれない。つまり、あと一年半ということだ。

 そのあいだ、ぼくはぼく自身―それはバッターボックスに立つぼくのことかもしれないし、尾を引くように彼に迫りくる白球に投影された形としてのぼくかもしれない。いずれにしても、ぼくはぼく自身について本当の意味で支配することができるのだ。長い時間ではない。けれども、それは間の取り方によって、最大限の長さにまで伸ばすことができる。

 旅に出たいと強く感じる。自分を探すだなんて野暮なことはしない。ぼくは自らを完結させたいだけなのだから、至極自然なことだろう?

2013/11/16

As Time Goes By

 

 如何なる喜びや快楽や、幸福感に包まれたところで、ぼくの奥の方で長い間巣食っている悲しみは、決して癒されることはないのだろう。そう思った。重要な内臓にべたりと癒着して鎮静化の兆しもない腫瘍のように、ぼくの悲しみは、ほとんどぼくそのものであるかのようだ。古い音楽に呼応して振動する度に、ぼくは肺の裏側に、痛みとも懐かしみともいえない、耐え難い思いに、つんとした感覚に触れることを禁じ得ない。

 十四歳の冬、彼女を日本に残してから一年が過ぎようとしているころ、ぼくは中学の食堂で友人とよくいろんな話をした。放課後、ホットチョコレートとマフィンを買って、他愛のない話をしたのだ。やがて日が傾き、みな帰る。ぼくはもう少し残った。味気ないマフィンを甘いだけのチョコレートに浸して、彼女のことを考えた。もう二度と会うことはないのかもしれない。イギリスの田舎町、古くなった柱を見つめながら、ぼくはよく考えたものだ…彼女について、彼女の居た風景について、彼女と見た風景について。

 だからこそ、今のぼくにはもう、何も要らないはずなのだ。長い間、ぼくの青春のほとんどの時間、心のどこかで浮遊し続けて居なくなろうとしなかった彼女の陰影は、しっかりと今のぼくに染みついている。そうして確かに、彼女はいま、遂に約束をしたのだ。ぼくに向かって、自信があるとのたまうのだ。ゴルゴンゾーラのニョッキを頬張ってワインを飲み、彼女はぼくの目の前で笑ったのだ。では、だのにどうしてかくも悲しい気持になるのだろう。



 これから元町に出かける。放蕩?いや、違う。

2013/11/13

11/8,9,10

 マッシュルームのアヒージョで火傷をした上顎の痛みは無くなった。彼女の部屋の匂いがついたシャツも洗濯機の中で回り、少しずつ、またもとの生活に戻っていく。富山に出発する日の夕方に肺を疼かせた低気圧は週末を越えて東シナに去りゆき、代わりにシベリアからおりてきた重たく冷たい高気圧が、朝を一層寒くする。ほとんど震えて目を覚ますと、真横のテーブルに残ったブランデーの匂いに気が付いて、それがほかでもないぼくの部屋であることに気が付く。彼女はもう、遠くなのだ。ベッドを出てフリースの部屋着を羽織って、服を着たまま頭だけ、暑いシャワーで流した。それから髭を剃って歯を磨く。歯ブラシを咥えたままレコードプレイヤーのスイッチをいれると、昨夜眠り際に聴いていたグレン・ミラーがかかる。

 彼女の気配が無い。ぼくの生活は神奈川県の端、海も見えない湘南の冬にじっと座り込んでいるだけだ。口をゆすぐと、彼女と観た映画のことを思い出した。白い壁にもたれて、酒を飲みながら二時間半、ぼくらは観た。その間にビールをひと缶ずつ、ワインを一本空けた。エンドロールの頃には、彼女の息は幾分波立っていた。ぼくは終始、涙しそうだったのだ。今度はいつ会えるのかと尋ねる彼女の目は酒の所為か潤んでいて、思わず長い時間のことを思った。少なくとも九年はかからないよ、すると彼女は無邪気に笑った。長い間ごめんなさいと笑った。ぼくはキッチンに立って薬缶からお茶を注ぎ、彼女のもとに戻った。彼女は眠っていた。



 一人、カサブランカを観た。何度目だろう、とにかく、これまで何度も観た。

 今回気付いたことがあった。それはぼくがイングリッド・バーグマンを好きな理由だ。それは彼女に似ていた。横顔、見上げる仕草、目を閉じて頬笑む様、それはまさに彼女に似ていた。口角の上がり方、目の形、首筋の伸び方。結局のところ、ぼくは彼女の影を追い続けていたのかもしれない。ずっと長い間、ぼくは彼女のことだけを考えていたのかもしれない。

 どうしようもない気持になる。

 来月も又会えたらいい。何にも代えがたい思いだ。それはほとんど奇跡と思われる。ぼくには未だ、信じることができないくらいだ。

2013/11/05

諦めるということ

 誠実さについて考えて、もう長いこと経つ。寛容さとは諦める能力のことではないかと思った。優しさとは、諦める能力のことではないかと感じた。

 諦めることって大事だ。
 「努力すれば自信になる」と先輩や教師は言うけれど、ぼくは違うと思う。努力はいくら積んでも足りない。上には上がいるし、例えある括りの中で最も優れていたとしても、その枠を外してしまえばまた、ぼくは陳腐な人間に成り下がるわけだ。
 努力に裏打ちされた自信というのは、勘違いだ。ぼくは受験でも野球でも、そう感じた。幾ら勉強しても、自信なんて持てやしない。おかしな話だ。どうしてぼくは努力しても東京大学に入れないのだ?そういうことだ。

 サークルの試合において、今年度の成績が目覚ましい。これは自他認めるところで、春から四番に座り続けて久しい。打率は実に.632。守備面においても遊撃手でまだエラーはない。守備率十割である。
 ぼくは中学一年でイギリスに渡り、野球をやめた。
 いま所属しているチームのメンバーで、ぼくを除く全員が元高校球児だ。ぼくは高校三年間、読書と音楽に現を抜かすばかりであった。

 無論、ぼくはチームの中で優れたほうではない。これは事実だ。

 ぼくは、諦めることで成績が伸びたと感じている。

 諦めること。無駄な期待をしないこと。そのバッターバックスに居て、ぼくはぼくでしかありえず、僕以上にはなり得ないのだ。例えチャンスで内野フライをあげてしまったとしても、その時点でのぼくは、その程度のことしかできなかったということだ。これはまともではないか。

 即ち、自分に自分以上を期待しないことが肝要であるように思われる。
 「努力したから結果はでるよ」なんてのは嘘だ。それは矛盾している。結果が出れば「努力が実ったね」と言い、そうでなければ「努力が足りないね」と言う。つまりこれは、すごくシュレーディンガーの猫みたいな話で馬鹿げている。野球は量子論で語るものではないからだ。

 どれだけ努力したって、そこで発揮できるのはせいぜい自分の力に過ぎない。
 ぼくはそう考えている。


 或いは、たとえば好きな女の子と意見が食い違ったとしよう。
 今までのぼくであれば、これを論理で説得しようとしていた。だって、たいていの場合ぼくが正しいからだ。ぼくが正しくない場合は、彼女の言い分でぼくが納得する。

 けれども、これも違う。彼女は「優しくない」と言うのだ。
 優しさとは、諦めることだ。

 結局のところ、ぼくらは分かりあうことなんてできない。勿論ぼくは彼女のことを自分のものにしたいと考えるし、理解してほしいとも考える。ところが、それが感情論にすぐスイッチしてしまったら、元も子もないのだ。そこでぼくは諦める。ぼくは彼女のことが好きだからだ。好きだから諦める。ぼくは彼女には期待しないし、期待しないということこそが、本当の優しさなのではないか。

 自分を信じることさえできないのに、目の前にいる女の子のことを信じることなんてそもそもできやしないのだ。それは傲慢であった。ぼくはもっと諦めるべきだ。そうした方がずっと過ごしやすいだろう。

2013/11/02

Living is easy with eyes closed

 十月が終わって、十一月がやってきて、朝晩が冷え込むようになって、厚手の服を着るようになった。新宿駅を出て、甲州街道をのたりと歩きながら陸橋の欄干に持たれて、眼下を歩く人々の様子を眺める。ぼくは婦人物の香水を買って、手渡された手提げをバッグに入れて型崩れさせるのも嫌な気持ちで、そのまま手に提げていたのだけれど、それが少し恥ずかしかった。四時の新宿は、軽薄な色をした粒子が濃密な霧となって支配していた。ぼくは音楽を聴くのをやめて、じっと街の音を聞いていた。

 脇の喫茶店で焼きたてのトーストとアメリカン・コーヒーを注文して、女の子のことを考えた。彼女はいまどこにいるのだろうか。日本を想像して、世界を想像した。彼女はもう二度と、ぼくと会うことも、会話をすることもないかもしれない。

 それから別の女の子のことを考えた。

 トーストは美味しかった。シナモン・トーストも食べたくなったが、なんだかやめた。品性の問題だ。コーヒーを飲みきるまでゆっくりと本を読んだ。サキの短編集だ。高校のときに一通り読んだはずが、中身はまるで覚えていなかった。

 ゆっくりと人生は過ぎていく。

 Can't Buy Me Love.

 いろんな思いが頭の中を巡るが、ひとまず風呂に浸かろう。寒くなると、一日に何度も風呂に浸かりたくなるのだ。何事についても、人にあまり期待はしないほうがいい。