諦めることって大事だ。
「努力すれば自信になる」と先輩や教師は言うけれど、ぼくは違うと思う。努力はいくら積んでも足りない。上には上がいるし、例えある括りの中で最も優れていたとしても、その枠を外してしまえばまた、ぼくは陳腐な人間に成り下がるわけだ。
努力に裏打ちされた自信というのは、勘違いだ。ぼくは受験でも野球でも、そう感じた。幾ら勉強しても、自信なんて持てやしない。おかしな話だ。どうしてぼくは努力しても東京大学に入れないのだ?そういうことだ。
サークルの試合において、今年度の成績が目覚ましい。これは自他認めるところで、春から四番に座り続けて久しい。打率は実に.632。守備面においても遊撃手でまだエラーはない。守備率十割である。
ぼくは中学一年でイギリスに渡り、野球をやめた。
いま所属しているチームのメンバーで、ぼくを除く全員が元高校球児だ。ぼくは高校三年間、読書と音楽に現を抜かすばかりであった。
無論、ぼくはチームの中で優れたほうではない。これは事実だ。
ぼくは、諦めることで成績が伸びたと感じている。
諦めること。無駄な期待をしないこと。そのバッターバックスに居て、ぼくはぼくでしかありえず、僕以上にはなり得ないのだ。例えチャンスで内野フライをあげてしまったとしても、その時点でのぼくは、その程度のことしかできなかったということだ。これはまともではないか。
即ち、自分に自分以上を期待しないことが肝要であるように思われる。
「努力したから結果はでるよ」なんてのは嘘だ。それは矛盾している。結果が出れば「努力が実ったね」と言い、そうでなければ「努力が足りないね」と言う。つまりこれは、すごくシュレーディンガーの猫みたいな話で馬鹿げている。野球は量子論で語るものではないからだ。
どれだけ努力したって、そこで発揮できるのはせいぜい自分の力に過ぎない。
ぼくはそう考えている。
*
或いは、たとえば好きな女の子と意見が食い違ったとしよう。
今までのぼくであれば、これを論理で説得しようとしていた。だって、たいていの場合ぼくが正しいからだ。ぼくが正しくない場合は、彼女の言い分でぼくが納得する。
けれども、これも違う。彼女は「優しくない」と言うのだ。
優しさとは、諦めることだ。
結局のところ、ぼくらは分かりあうことなんてできない。勿論ぼくは彼女のことを自分のものにしたいと考えるし、理解してほしいとも考える。ところが、それが感情論にすぐスイッチしてしまったら、元も子もないのだ。そこでぼくは諦める。ぼくは彼女のことが好きだからだ。好きだから諦める。ぼくは彼女には期待しないし、期待しないということこそが、本当の優しさなのではないか。
自分を信じることさえできないのに、目の前にいる女の子のことを信じることなんてそもそもできやしないのだ。それは傲慢であった。ぼくはもっと諦めるべきだ。そうした方がずっと過ごしやすいだろう。
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