保障された生活は詰まらないと思う。無骨でざらざらとした生活を営みたいと思う。それが若さと言うものではないか。三島は言う、若さが幸福を求めるというのは、すなわち衰退であると。ぼくは人間として在り続けるため、或いは、衰退しないためにも、洗練された世界から隔絶されたいと強く望むところだ。けれどもその反面、まさしくぼくはスーツを二着新たにあしらえ、あろうか就活サイトに快く会員登録まで済ませる始末である。
理由はふたつある。両親を悲しませたくないのと、愛する女性と生活したいこととだ。強烈なジレンマがある。ハーブティーから立ち上る湯気を眺めながら考える。ぼくはパンツ一丁だ。着古したトランクス姿、首にくるりのハンドタオルを掛けている。古今東西の音楽を大きく流しながら、セブンイレブンのスモークチーズを齧る。ぼくの求めているものはなにものなのか。それさえ掴めないのに、何が主張だろう。若者の主張ほどに空疎で安いものはないだろう。例外的に、いわゆる社会的大人の一見大人びた思想に比べてみれば、無論はるかまともな論であることは確かであるが。
大学四年になったら、本格的に旅をしようと思っている。一人でだ。国外に行くつもりはない。国外に行く必要がないし、寧ろそこにはたぶんなノイズが想定されるからだ。ぼくが行うのは観光ではない。しかしまた、いわゆる自分探しの旅でもない。呼ぶなれば、これはぼくがぼく自身を完結させるための、旅とも呼べぬ、ある種の放蕩となるに違いない。
これまで幾度も同じような旅を繰り返してきた。それぞれにそれなりの結果は伴った。しかしその挙句として、あくまで悪い形ではなく、ぼくは現在、ある種の自己拘泥をさらに深めんとしているさなかであることは否めない。然りてぼくは思うのだ。もう少し長い時間、ゆっくりと足を動かすことが重要であると。そうしてぼくはぼく自身を完結させることができる。
バッターボックスに立って投手と対峙するとき、ぼくはいつも「間」のことを考える、ま。ぼくはネクストサークルから歩いてボックスに向かうが、その時、その場は無論バッテリーによって支配されている。彼らの空気を割るようにしてぼくが入るのだから、完全に招かれざる客といった役回りである。捕手がサインを出し、投手は頷き、モーションに入る。ここでもまだ、ぼくは第三者だ。ようやくボールが投手の手から離れた瞬間、そこにぼくはつけ入る。ボールが誰のものでもなくなった刹那、ぼくの腹の前を通り過ぎていくまでのあいだ、その場の支配権は、うまくいけばぼくに渡されるのだ。ゆっくりと足をあげて、下半身に連動させるような形で上体を後ろ向きにためる。ボールの動き、回転に合わせて体を滑らかに動かすと、ぼくの眼前にその球が訪れるころには、無理なく自然な形で、バットがそこに出されている。
間。
旅というのはぼくにとって、こういったものなのだ。
そうしてその間は、あとわずかしかないかもしれない。つまり、あと一年半ということだ。
そのあいだ、ぼくはぼく自身―それはバッターボックスに立つぼくのことかもしれないし、尾を引くように彼に迫りくる白球に投影された形としてのぼくかもしれない。いずれにしても、ぼくはぼく自身について本当の意味で支配することができるのだ。長い時間ではない。けれども、それは間の取り方によって、最大限の長さにまで伸ばすことができる。
旅に出たいと強く感じる。自分を探すだなんて野暮なことはしない。ぼくは自らを完結させたいだけなのだから、至極自然なことだろう?
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