ふと、言葉の出なくなることがある。それはいろんな場面で、たとえば大学の仲間と一緒に部屋で暇を潰しているとき、女の子と飲んでいるとき、ひとりで文章を書こうとするとき、音楽を聴いているとき、髭を剃っているとき。
普段、言葉は湧き上がってくる。湧昇してくるものを金魚すくいの要領で拾い上げることもあれば、底に滞留しているものを腕を浸して引っ張り上げることもある。少なくともそこには無意識の領域があって、そこにおいては不可侵だ、そのもう少しこちら側にぼくの領域がある。
言葉の出なくなる瞬間、その流れが止まる、或いは、温泉のような湧出は、地下深くの水路の微妙なずれか何かで、埋まってしまう。つまりぼくには、あらゆる言葉の価値がとても虚ろに見えてしまうのである。何を言っても、或いは、何を言わなくても、全ての流れは失われたままのような気がしてくるのだ。
その間―つまり言葉の出ない間、ないしは、その澱み―つまり流れのない状態、において、ぼくは黙るしかない。言葉はどれも同じに見える。どう選り好みをしたって、結局のところ事態は動きそうにない。もちろん普段だって、何か事態を恣意的に動かすために言葉を選び発しているわけではないけれど、いずれにしても、言葉によって何かが変わっていることは確かだ。それを物理的かそうでないかと吟味することには意味がないにしろ、である。
言葉だけならばまだよい。しかしこういった塩梅の時、ぼくにとっては大抵、あらゆる表象が同一の作用を来す。あらゆる表象、あらゆる芸術が、ひいては音楽も絵画も、ジェスチュアも表情も、スキャットもダンスも、言葉と一緒にうずたかい塵泥に沈み込んでいく。うずたかい塵泥は死んだ言葉の墓のようにシンボリックだ、死んだ言葉というのが正しい表現なのかどうかも分からない。或いは言葉の死んだ墓なのかもしれない、墓の言葉の死なのかもしれない。死んだ言葉とはなんだ?それでは生きている言葉とはなんだ?死んだ人間に生きた言葉は表現できるのか?こういった具合だ、言葉は泡のように頼りない。
言葉は無力だ。しかし言葉に足る何かがぼくらに備わっているのか?言葉は無力であるが上に美しい。少しずつ力を失っていく様子もはかなくて美しい。記号という枠組みを超える瞬間もある。言葉が言葉を生むこともある。文字にした途端に印象の変わるものもある。ぼくが愛していると言えば、その言葉は順列組合せみたいに乱舞しながら中空を彷徨い、彼女や、髭のマスターや、隣のテーブルの女子大生たちに吸収される。或いは鳴りやまないカントリーロックが覆いかぶさって隠してしまうかもしれない。言葉はこれだからやめられない。言葉はこれだから脱け出せない。ああ、ぼくは言葉が欲しい。言葉の先端に火を灯して、吸い込んで、肺のフィルターに滲まなかったものだけを、したり顔で吐き出せばよい。
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