2013/08/31

過ぎ去りぬ夏、過ぎ去りぬ時代

 二日間、中学の同級生と三人でキャンプをしてきた。去年に引き続き、二度目である。とはいえ、台風の虞から、今度は昨年のようにテントやタープははらず、バンガローを借りて行われた。夕方に到着し、四時ごろから真夜中まで、ゆっくりとBBQを続けながら語らいに興じた。それは本当に素晴らしい時間だった。酒を片手に、ぼくらはありとあらゆる話をした。テーマは尽きなかった。
 思えばぼくらはおよそ十年来の友人になっていた。ぼくらはそれに心底驚いた。十年というのは長い時間だ。住んでいる場所も立場もそれぞれの中で、一年に一度か二度しか会えない中で、かくも心を許せる彼ら。
 ぼくは彼らの前でこそ、自分自身でいられる気がするのだ。
 生きているのも悪くないと思えるのは、幸せなことだ。

 ヒグラシが鳴いて、クツワムシが鳴いた。サカタは煙草を片手に女の子の話をしていた。カンタは酒に顔を赤らめて結婚の話をした。就職の話をして、学校の話をして、かつての話をして、将来の話をした。

 「一生、毎年こういう具合に集まりたいね」と口をそろえた。
 奥さんができたら六人で、子供ができたら三家族で。年をとったらリッチなホテルで。そういった話は希望そのものである。希望というのはやはり、愛すべき他人との間にこそあるものなのか?

 生きているのも悪くないな、と思った。
 それから、Eの話をした。ぼくは彼女に会いたい、と思った。ぼくらにはまだ話すべき幾つもの物事があるはずだ。夜を徹して、只管に話をしたい。そう心から思う。

 なんだろう、不思議な気分だ。

2013/08/29

放浪の果てに

 「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。」
ー小林秀雄「モオツァルト」

 旅の中で、やり場のない、形容すらしがたい「乱脈な」思いに満たされることがしばしばある。ぼくはその掴みどころのなさや曖昧さ、さらには一方でそのぼんやりとした輪郭をはっきりと見極めることの出来ない自身にも、静かな苛立ちを抑えることができずにいた。それは八戸駅のそばの鬱蒼とした川原で、足摺岬の果てない眺望に、或いは、神戸マリンタワーの回転喫茶で。つい先日、午後十一時の暗闇に携帯の電池を切らして情報を失い、京都は烏丸駅近くのマクドナルドで途方に暮れているときも、由来の明らかならぬ、ふつふつと湧き上がるこの苛立ちに苦しんでいた。思考が行列のように蛇行してぼくの頭の中をぬるぬると滑り落ちては這い上がる。真夜中のマクドナルドは肌寒く、上着を羽織ると眠気に意識を失いかけた。
 けれども、帰りのJRで小林秀雄による上の文章を読んだとき、ぼくははじめてこの苛立ちを肯定することができた。もちろん、その全様を善しとするものではない。けれども、小林ほどの頭脳ですら、この苛立ちを経験し、またそこから何かを勝ち得ている様子、「自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして」いる状態があったのだということは、ぼくにはすごく励みになる。ぼくは単純な男なのだ。
 そうして、旅とも呼べぬかの貧乏放浪の末にぼくは又、この耐え難き虚しさの代わりにかけがえのない思いを含みこむことができたのだと信じている。そうでなくば、小林は間違っているのだろうか、或いは、ぼくの苦痛はまったくの無駄ということだろうか。

 周りに左右されたくないというのは、頑固に自分の言論を貫き他を負かしたいという欲求からきているものではない。そういう時期もあったが、今は違う。これは、人と自分との差別化をはかることの重要性を自分に言い聞かせるものである。つまり、人と自分は違う。これは当然のことだ、しかし一方で、我々はその単純かつ自明のことを忘れがちだ。人と自分という普遍の二項対立的構造をとっているはずのものを、ついつい同一のものとして捉えてしまいがちなのである。
 そうすると、自分はなくなる。他人が自分であり、自分が他人になってしまう。それが人の考えなのか、自分の考えなのか、そういったことが分からなくなってしまうのだ。それは極めて危ういことだ。なぜならば、洗脳や独裁といった非人間的社会状況というのは、かくした個々人の認識にこそ通用するのだから。
 「外的要因がない限り現在自己の離脱が出来ないのも事実」これも確かだ。間違ってはいない。しかしその認識が念頭にある限りは、彼は「外的要因」にもたれかかるだけの「非自己」に囚われる人形でしかあり得ないだろう。

 ぼくの思うに、信頼というのは苦しいものだ。本当の信頼というものは、猜疑の積み重ねに裏づくと思っている。それは人に対する信頼も、何か物事に対する信頼も同じだ。はじめから成立しているような信頼は、本来の信頼ではない。これは虚構なのだ。
 したがって、人は裏切られるものである。では、裏切られたときのことを考えなければならない。たとえば、恋人に自分の全部分を没入させていたらば、浮気をされたとき、私=恋人であるのにも関わらず、恋人を私自身から遠ざけようとする行為には、まさに自分自身を引きちぎるような半ば不可能とも思われる乖離への必要が生じる。
 ぼくは、彼に対する誠意として、完全なる信頼を決して行わない。彼を疑うことは、彼に対する尊敬だ。信頼というのはそういったプロセスの結果に過ぎないのではないか。また、疑うということは、自分をも省みるということであり、きちんとした自分を、相手の前に提示するという本質的かつ分かりやすい自らの相手に対する敬意を具現する。

 信頼というのは結句、練磨された挙句の究極の宝玉なのかもしれない。それはシンプルなものだ。しかし、それに繋がる過程は、極めて複雑なのだ。模倣は簡単である。大きなごつごつした石を丹念に削り続けて小さな碁石を作り上げるのと、碁石のような石を川原で遊んだ折にでも拾ってくるのとの違いだ。
 しかし、一見同様の石であれ、その質は明らかに違っているのである。

 ぼくは、本当の信頼を得たいと思う。何もかもをとは無論言わぬ、一つでいい、一人でいい、ぼく自身を曝け出し、ぼく自身で愛することのできる本当の宝玉を見つけたい。それを築くためなら、ぼくは何をも惜しまない。如何なる苦痛も惜しまない。

 さて、ぼくはかようなことを考えていたから昨晩眠れなかったのだ。なんだか目は冴えている。八月も終わりが近く、いま、実家の食卓でこれを打っている。勝手場では母がスパゲティを茹でている。ステレオからは加山雄三が流れている。犬は寝ている。風が吹いている。ぼくは生きているのだし、生きている限り、肯定的な姿勢でありたいと思う。ぼくは間違っちゃ居ないのだ。京都の夜を思い出す。あの妙な絶望感、何か濁った絶望感、あの夜には気になって鬱陶しかったその濁りが、今では味わい深い日本茶のような、奥行きを生み出すための美しい濁りにさえ、見えてくるのだ。

2013/08/25

真夏の果実

地区の小さな夏祭りにかりだされて手伝いをしてきた。ビンゴ大会と抽選会の仕事だった。祭りには多くの家族連れや子供たちが訪れる。ぼくも小学生、中学生時分には友人や家族と毎年来たものだった。様子は変わっていなかった。十年前とほとんど何ら。体操着の中学生たちが照れくさそうな顔で焼き鳥を買い、乳房の大きな新妻が赤ん坊を抱いて鰯雲を眺めている。おじさんたちはビールを片手に歓談に耽り、曲がった高校生は眉にピアスを空けた女を連れて夏を惜しむ。

そうした風景の中で、知らぬうちに自分の知り合いのほとんど居ないことに気がついた。ぼくと同じように、彼らもまた地元を離れ暮らしているのだ。たまたま今年実家に居て、たまたま親に仕事を任されたからぼくはここにいるのであって、そうでなければぼくもまた、多摩川の花火を最後に夏の終わりを待とうとしていたのだ。

それは妙な感覚だった。空気は同じだ。そこに居る人間の種類も同じだ。しかしぼくの認識はその傾向、或いは枠のみにとどまるものだ。間違っても具体に踏み入れることはない。なぜならば、ぼくは彼らの種類には大きく感じさせられるが、彼ら自身を知らないからだ。
そして又、一方で、ぼくは背だけが伸びたに過ぎず、結句この水溜りに浸かり続けているのだ。流動性を含まない、浅く広い水溜りで、ぼくはその中だけをゆっくりたゆたう。ノスタルジーではない。なぜならば、ぼく以外のものは全て既にここにはないからだ。

係りを終えて、二十時ごろからいよいよビールをしこたま飲んだ。けれども話す相手なんて居ないから、ずっと音楽を聴いていた。高校二年の毎日をそうしたように、サザンの真夏の果実を延々とリピートし続けたのだ。夜はすっかり過ごしやすい気温だ。汗もひいて、日は暮れた。鰯雲の影が月明かりで透けて、ぼくは同じような空を見た多摩川を少し思い出した。川崎の側で花火を見たのはつい十日ほど前のことだ。そのときもこうしてビールを飲んでいたな、と思った、花火は美しかった。

懐かしいと思うことが多くなった。これは当然のことだが、しかしぼくは未だ二十二である。この年でかくも感じるのだから、これからもし何十年と生きていくのなら、そのうち人生のほとんどを懐かしみの中に暮らさなければならなくなるのかもしれない。ちょっと考えにくいことだが、でもこれまでを思うと、それが自然だ。
会場になった公園は、中学一年のころ付き合っていた彼女と一度だけ訪れたことがあった。誰も居ない平日の夜に、何と無しに集合場所をそこにして話をしたのだ。何を話したのかは覚えていない。記憶にあるのは、彼女が滑り台の一等したの部分に腰をかけてこちらに手を振ったのと、ぼくが彼女を本当に心の底から愛していたということだ。

・・・恥じらいというものがないのか?
けれどもそうなのだ。それが事実だ。
当時のぼくには、恋愛はごく簡単なことだった。

今では分からないことが多い。人生は経験だと言う人がいる。ぼくはそうではないと思う。彼らはぼくの話を聞くときまって「揚げ足を取るな」だとか、「例外を述べ立てるでない」だとか云々のたまう。
経験するにつれ、ぼくは阿呆になっている気がするのだ。

人を愛するとはどういうことか。それは真実にはどういう感覚でぼくの中に在るべきものであったか。性愛を除いて、確かにぼくは女性を心底愛することができたはずなのだ。関係性やほかの理屈を放り投げて、その人だけを愛することができたはずなのだ。

ぼくはイギリスに渡り、彼女はそのうちぼくと別れようと言った。仕方ないことだ。そうしてぼくの同級生と付き合い、そのれは五年ほども続いたと言う。これは最近地元の旧友に聞いた話だ。しかしつい先日、その彼と別れた。そうして今荒れている、と。ぼくはなんともいえない気持になった。
いや、いやな気分になった。

一体、どうしてそう効率性を損なうのだろうか。
ぼくにはまったく理解ができない。

確かに人は間違うだろう。けれども彼らは幾度も間違い、それを悟って尚、同じことを繰り返す。

訳がわからぬ。明日会う人にはその話を、できるだけ退屈でないように話したい。

2013/08/22

苦瓜とビール

実家に訪れている。これから愛知と静岡の境目、遥か山奥に位置する祖母の家に向かおうとしている。一泊だが、楽しみだ。祖父は高二の春に亡くなった。本当に素晴らしい人物だった。
実家に帰ると刺激を受ける。父親に、祖父に、その他親類に。弟もきちんと成長しているようだし、犬は相変わらず元気である。幸せなことだ。確かに幾つもの問題を、彼らそれぞれが抱えているに違いない。けれどもその中にあって、こうのびのびと暮らせているというのは、偏にみんなのお陰だ。亡くなった祖父、それよりずっと以前に亡くなっている曽祖父、曾祖母。こういった人たちの先立っての努力と人生とが、ぼくにも確かに脈々と影響してくる。そう考えると、ぼく自身もおちおち気を抜いていられない。一日一日に対して懸命にならなければならない。ということで、本を読むことにする。ぼくの場合、如何にこれに没頭できるかが、あらゆる物事のパラメータになっているように思われる。

2013/08/16

シノノメに

 東雲に吹く風を切ってコンビニへ向かった。細々としたものを買って、アイスコーヒーを飲みながら帰ってきた。二週間の留守の間に、自転車のチェーンが少しおかしくなっている。早朝とはいえ、やっぱり暑い、瞬く間に背中にじっとりと汗をかいて、だからシャワーを浴びた。音楽をかけてゆっくりと本を読みながら、今日すべきことを考えた。よく考えたら、明日には実家に帰るのだ。きちんと準備をせねばならぬが、まだ何も手を付けていない。おろか、部屋はまた散らかる一方である。

2013/08/15

終戦の日

 免許合宿の間に小説「永遠のゼロ」を読み、昨日映画「風立ちぬ」を観て、そうして今日は終戦記念日であった。こういう機会に思い出したように考え込むのは、或いは薄情の裏返しに過ぎないのかもしれないが、日本人ならば考えずにはいられないだろう。
 ウェーキ島で戦死をした父方の曽祖父を、又、体が悪く徴兵されず、名古屋の三菱重工で戦闘機の生産に携わっていた母方の祖父を、思う。彼らは戦争の世代だ。今の日本に豊かさを齎した、しかし彼ら自身は死と隣り合わせの青春を送った、そういった世代だ。

 日本は確かに豊かになった。けれど、精神的には貧しい。これは傲慢だろうか、或いは求めすぎだろうか。日本はすごく寂しい国だ。もしかすると、戦前、戦中よりもずっと寒々しい時代なのかもしれない。鋳型にコンクリを流し込んだような国だ。ぼくはそう感じる。
 思い出さなければならないのは、戦争の凄惨さだとか、それに伴った多くの悲劇ももちろんそうだけれど、それ以上に、当時の日本人の精神的な豊かさではないか。当時の、われわれの先祖の、誇り高き自覚ではないだろうか。貧しくも希望に満ち、また死を見ることで信じた生の素晴らしさ、これをぼくらは思い出さなければならない。
 巷の議論はどれも下らない。本質的な問題提起は青臭いと一笑され、代わりに形式主義的で形骸化した時代遅れの横文字を並べ腐ってばかりいる。何もかもを忘れ、過去を置き去りにして(彼らは「過去なんて関係ない」などと抜かすのだ!)、さも高らかに「未来を」なぞとのたまっている。しかし彼らは空洞だ。過去を学ばずに、現在できるものか、将来を設計できるものか。

 まるで根本的に間違っているのだ。価値観なぞというものはこの場合存在しない。価値観の世界と虚実の世界とは全くの別物だ。まずはそこから説明する必要があるが、これもまた悲しい。忘れてはならないのは、意識の念頭に置くべきは、必ず正しさと言うものは存在するということだ。もちろん、その上に付与され得る別個性は価値観に依拠する場合があるが、大方、その議論に達する以前には、それが正しいのか否か、それも論理的な整合性が含まれているか否かに基づいている。従って、その土台が正しくなくば、その議論には意味はないのだ。ゼロである。
 そうして、しばしば正しさと言うのは、過去から未来に貫く普遍性を持ち合わせている。従って我々は過去を注意深く観察する必要があるのだ。過ぎ去ったことは観察できる。今過ぎゆこうとしている現在や、まだ影すら匂わせない未来に目を凝らしたところで、真実なぞ見えるはずがないのだ。
 過去に学ぶこと。ろ紙を何枚も使って、きちんと真実らしさを抽出し、それを鋲でとめること。数歩下がって壁を見渡せば、自ずと正しさは見えてくる。
 白痴の多くは過去を見ない。そういう連中とは話ができない。彼らには話すべき中身が無いからだ。

 日本の過去の歴史は辛いものだ。しかし、その表現されたものを現代のわれわれが目にするとき、それは決してわれわれに感傷や絶望を与えるためのものではない。泣くのではない、跪くのではない。ぼくらはそれに学ばねばならないのだ。それに涙したら、同じだ。ぼくらの生がその歴史に基づいていることを深く理解すれば、涙は出ないはずだ。ぼくらは生きねばならない。そして、生きるということは、すなわち死ぬということだ。