2013/08/29

放浪の果てに

 「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。」
ー小林秀雄「モオツァルト」

 旅の中で、やり場のない、形容すらしがたい「乱脈な」思いに満たされることがしばしばある。ぼくはその掴みどころのなさや曖昧さ、さらには一方でそのぼんやりとした輪郭をはっきりと見極めることの出来ない自身にも、静かな苛立ちを抑えることができずにいた。それは八戸駅のそばの鬱蒼とした川原で、足摺岬の果てない眺望に、或いは、神戸マリンタワーの回転喫茶で。つい先日、午後十一時の暗闇に携帯の電池を切らして情報を失い、京都は烏丸駅近くのマクドナルドで途方に暮れているときも、由来の明らかならぬ、ふつふつと湧き上がるこの苛立ちに苦しんでいた。思考が行列のように蛇行してぼくの頭の中をぬるぬると滑り落ちては這い上がる。真夜中のマクドナルドは肌寒く、上着を羽織ると眠気に意識を失いかけた。
 けれども、帰りのJRで小林秀雄による上の文章を読んだとき、ぼくははじめてこの苛立ちを肯定することができた。もちろん、その全様を善しとするものではない。けれども、小林ほどの頭脳ですら、この苛立ちを経験し、またそこから何かを勝ち得ている様子、「自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして」いる状態があったのだということは、ぼくにはすごく励みになる。ぼくは単純な男なのだ。
 そうして、旅とも呼べぬかの貧乏放浪の末にぼくは又、この耐え難き虚しさの代わりにかけがえのない思いを含みこむことができたのだと信じている。そうでなくば、小林は間違っているのだろうか、或いは、ぼくの苦痛はまったくの無駄ということだろうか。

 周りに左右されたくないというのは、頑固に自分の言論を貫き他を負かしたいという欲求からきているものではない。そういう時期もあったが、今は違う。これは、人と自分との差別化をはかることの重要性を自分に言い聞かせるものである。つまり、人と自分は違う。これは当然のことだ、しかし一方で、我々はその単純かつ自明のことを忘れがちだ。人と自分という普遍の二項対立的構造をとっているはずのものを、ついつい同一のものとして捉えてしまいがちなのである。
 そうすると、自分はなくなる。他人が自分であり、自分が他人になってしまう。それが人の考えなのか、自分の考えなのか、そういったことが分からなくなってしまうのだ。それは極めて危ういことだ。なぜならば、洗脳や独裁といった非人間的社会状況というのは、かくした個々人の認識にこそ通用するのだから。
 「外的要因がない限り現在自己の離脱が出来ないのも事実」これも確かだ。間違ってはいない。しかしその認識が念頭にある限りは、彼は「外的要因」にもたれかかるだけの「非自己」に囚われる人形でしかあり得ないだろう。

 ぼくの思うに、信頼というのは苦しいものだ。本当の信頼というものは、猜疑の積み重ねに裏づくと思っている。それは人に対する信頼も、何か物事に対する信頼も同じだ。はじめから成立しているような信頼は、本来の信頼ではない。これは虚構なのだ。
 したがって、人は裏切られるものである。では、裏切られたときのことを考えなければならない。たとえば、恋人に自分の全部分を没入させていたらば、浮気をされたとき、私=恋人であるのにも関わらず、恋人を私自身から遠ざけようとする行為には、まさに自分自身を引きちぎるような半ば不可能とも思われる乖離への必要が生じる。
 ぼくは、彼に対する誠意として、完全なる信頼を決して行わない。彼を疑うことは、彼に対する尊敬だ。信頼というのはそういったプロセスの結果に過ぎないのではないか。また、疑うということは、自分をも省みるということであり、きちんとした自分を、相手の前に提示するという本質的かつ分かりやすい自らの相手に対する敬意を具現する。

 信頼というのは結句、練磨された挙句の究極の宝玉なのかもしれない。それはシンプルなものだ。しかし、それに繋がる過程は、極めて複雑なのだ。模倣は簡単である。大きなごつごつした石を丹念に削り続けて小さな碁石を作り上げるのと、碁石のような石を川原で遊んだ折にでも拾ってくるのとの違いだ。
 しかし、一見同様の石であれ、その質は明らかに違っているのである。

 ぼくは、本当の信頼を得たいと思う。何もかもをとは無論言わぬ、一つでいい、一人でいい、ぼく自身を曝け出し、ぼく自身で愛することのできる本当の宝玉を見つけたい。それを築くためなら、ぼくは何をも惜しまない。如何なる苦痛も惜しまない。

 さて、ぼくはかようなことを考えていたから昨晩眠れなかったのだ。なんだか目は冴えている。八月も終わりが近く、いま、実家の食卓でこれを打っている。勝手場では母がスパゲティを茹でている。ステレオからは加山雄三が流れている。犬は寝ている。風が吹いている。ぼくは生きているのだし、生きている限り、肯定的な姿勢でありたいと思う。ぼくは間違っちゃ居ないのだ。京都の夜を思い出す。あの妙な絶望感、何か濁った絶望感、あの夜には気になって鬱陶しかったその濁りが、今では味わい深い日本茶のような、奥行きを生み出すための美しい濁りにさえ、見えてくるのだ。

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