2013/08/15

終戦の日

 免許合宿の間に小説「永遠のゼロ」を読み、昨日映画「風立ちぬ」を観て、そうして今日は終戦記念日であった。こういう機会に思い出したように考え込むのは、或いは薄情の裏返しに過ぎないのかもしれないが、日本人ならば考えずにはいられないだろう。
 ウェーキ島で戦死をした父方の曽祖父を、又、体が悪く徴兵されず、名古屋の三菱重工で戦闘機の生産に携わっていた母方の祖父を、思う。彼らは戦争の世代だ。今の日本に豊かさを齎した、しかし彼ら自身は死と隣り合わせの青春を送った、そういった世代だ。

 日本は確かに豊かになった。けれど、精神的には貧しい。これは傲慢だろうか、或いは求めすぎだろうか。日本はすごく寂しい国だ。もしかすると、戦前、戦中よりもずっと寒々しい時代なのかもしれない。鋳型にコンクリを流し込んだような国だ。ぼくはそう感じる。
 思い出さなければならないのは、戦争の凄惨さだとか、それに伴った多くの悲劇ももちろんそうだけれど、それ以上に、当時の日本人の精神的な豊かさではないか。当時の、われわれの先祖の、誇り高き自覚ではないだろうか。貧しくも希望に満ち、また死を見ることで信じた生の素晴らしさ、これをぼくらは思い出さなければならない。
 巷の議論はどれも下らない。本質的な問題提起は青臭いと一笑され、代わりに形式主義的で形骸化した時代遅れの横文字を並べ腐ってばかりいる。何もかもを忘れ、過去を置き去りにして(彼らは「過去なんて関係ない」などと抜かすのだ!)、さも高らかに「未来を」なぞとのたまっている。しかし彼らは空洞だ。過去を学ばずに、現在できるものか、将来を設計できるものか。

 まるで根本的に間違っているのだ。価値観なぞというものはこの場合存在しない。価値観の世界と虚実の世界とは全くの別物だ。まずはそこから説明する必要があるが、これもまた悲しい。忘れてはならないのは、意識の念頭に置くべきは、必ず正しさと言うものは存在するということだ。もちろん、その上に付与され得る別個性は価値観に依拠する場合があるが、大方、その議論に達する以前には、それが正しいのか否か、それも論理的な整合性が含まれているか否かに基づいている。従って、その土台が正しくなくば、その議論には意味はないのだ。ゼロである。
 そうして、しばしば正しさと言うのは、過去から未来に貫く普遍性を持ち合わせている。従って我々は過去を注意深く観察する必要があるのだ。過ぎ去ったことは観察できる。今過ぎゆこうとしている現在や、まだ影すら匂わせない未来に目を凝らしたところで、真実なぞ見えるはずがないのだ。
 過去に学ぶこと。ろ紙を何枚も使って、きちんと真実らしさを抽出し、それを鋲でとめること。数歩下がって壁を見渡せば、自ずと正しさは見えてくる。
 白痴の多くは過去を見ない。そういう連中とは話ができない。彼らには話すべき中身が無いからだ。

 日本の過去の歴史は辛いものだ。しかし、その表現されたものを現代のわれわれが目にするとき、それは決してわれわれに感傷や絶望を与えるためのものではない。泣くのではない、跪くのではない。ぼくらはそれに学ばねばならないのだ。それに涙したら、同じだ。ぼくらの生がその歴史に基づいていることを深く理解すれば、涙は出ないはずだ。ぼくらは生きねばならない。そして、生きるということは、すなわち死ぬということだ。
 

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