2013/06/15

突堤を海に向けて歩けば死について分かるだろう

(昔、イタリアの何処かの町にて)

 部屋を出る直前まで一日雨が降るという予報だったのに、大学に着くころには強い日差しが射していた。図書館で研究会の発表スライドを練って、二時間ほど話し合い、それから二時間ほどは、一人で文章を書いていた。なかなかうまくいかない、相変わらずだ。

 それから一旦部屋にかえってシャワーを浴びた。音楽を聴いて映画を観ようとしたけれど、気が変わってドトールに向かった。二十一時まで本を読んで、店が閉まるので反対側のミスドに移った。そこからはゆっくりと文章を書いた。うまく書けた、珍しいことだ。
 二十三時ごろにKがやってきて飲みに行こうと言った。ぼくはそれに従った。一時間ほど後輩を待って、それから最近開店した居酒屋に入った。いろいろと言いたいことはあるが、ぼくは黙ることにした。ビールをジョッキに四杯飲んで、店を出た。帰りに緑色のビールを二缶買って帰宅。途中でものすごく可愛い女の子とすれ違った。あんなに暗い道をひとりで歩いたら危ないなあと思った。けれどもすごく可愛かったので、歩いていてよかったなと思った。胸の形がくっきりとシャツに浮かんでいた。ぼくは自転車でその横を通り過ぎた。部屋に戻ってシャワーを浴びて音楽を聴きながらビールを飲んでいる。ウイスキーもある。これから映画を観ようか迷っている。


 話すようになったのかもしれないし、黙るようになったのかもしれない。とかく沈黙を埋めることは多くなっただろう。それは悲しいことだ。ぼくの意志とは裏腹に、空虚な言葉が次々と流れ出てくる。けれどもそれはある意味では仕方ないことだと許してほしい。ぼくは決して無思考に従っているわけではない。むしろ、思考したいがために、本質的な意味では沈黙したいが故に、しゃあなしに口を動かしてしまっているのに過ぎないのだ。

 人は変わる、確かに、表面的には変わるだろう。しわが寄ったり、髭が伸びたり。或いは精神的なことに関しても、表層の変化は抗いがたい。けれども、その芯は、意識次第でメインテナンスが可能だ。そう思う。


 黙ることはすごく大事だと思う。しかし同時に、語ることも肝要だ。それを忘れてはいけないと思う。二本目のビールを取り出しに行こうと思う。無性に寂しくなる。でもこれは排すべき感覚ではない。何か別のもので埋めるべきものでもない。ぼくはそれを愛するべきだ。満たされなくてはじめて、ぼくは両足で立つことができるのだから。

 憂いが雨の湿り気と一緒に空に浮かんでいく。それが月を曇らせて、意味ありげに滲んだ明かりがぼうっと、部屋に染み入ってくる。女の子のことと、海のことを考えている。突堤を歩けば、きっと死について分かるだろう。

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