2013/06/30

アイネ・クライネ・ナハトムジーク

 クラシックとジャズとをただ只管に流しまくりながら、惨憺たる部屋を片付けんとしている。立ち込める滞留せし空気と塵とを肌に内臓に感じながら、ただ要らぬものを分けていく。冬ものの多くを実家に送り返すことにした。そしてできる限りものを減らすことにした。就職活動を前に、少しでも過ごしやすい環境をこの部屋には備えなければならない。そう思うのだ。

 心が乱れているのは部屋が乱れているからだ。

 ぼくは寂しい。

 サラ・ヴォーン、サミー・デーヴィス・ジュニア、アル・ジャロウ、フランク・シナトラ、メル・トーメ。ヴォーカル・ジャズ。リスト、ラフマニノフ、ショパン、モーツァルト、そういうものも。新世界より、ドヴォルザーク。このまま眠りたいと思う。でも背中にはじっとりと汗をかいている。チェット・ベイカーのシング。或いはストックホルムでのマイルス・デイヴィス。ぼくは部屋を片付けて、シャワーを浴びてすっかり気持ちよく眠りたいのだ。と、レイ・チャールズの出てくる辺りがよい。これをジャズと呼べるのか、分からぬがヴォーカル・ジャズ・トラックに収録されている。このCDが終わったら何をかけようか。サッチモのLPが一枚あるのだ。けれどもチャーリー・パーカーも捨てがたい。彼のように麻薬と酒とに溺れて…そうだ、彼は35で死んでいるのだ。それはぼくに暗示的な何かを見せる。というわけでも、チャーリーをかけようじゃないかと思うのだ。このCDは名古屋駅地下にかつてあった書店のカゴで贖ったものだ。高校生の時だった。今でも覚えているさ、エスカレータの脇にそのカゴはあったのだ。

 ジョー・スタッフォードが歌う。

When they begin
the beguine
it brings back the sound
of music so tender
it brings back a night
of tropical splendor
it brings back a memory of green

 ああ、まさにこういうものだ。

 ぼくはこのアヘン窟のような寝床に蠢きながら、音楽にのってどこへでも行けるのだ。どの瞬間にも遡ることができるのだ。シーツの擦れる音がする。喉が微かに震える。雨の記憶だ。マクドナルドと花火の匂い。そういう瞬間、ぼくがまさにぼく自身であった瞬間が、音波の尾根に、谷に、ひとつひとつのうねりに残っている。或いは、ハミルトン島の珊瑚、地中海の青、中学一年に二人で上った、早朝の緩やかな坂。そういうぼくだけのものが、ぼくだけの音楽に、確かに、残されている。
 
 埃を手で払うようにして、ぼくは音楽の調べに目を閉じる。そういう夜があってもよいだろう。とはいえ片付けは続く。ぼくは現実から逃げたいというんでもないからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿