2013/09/05

ドロリとした思考

 ほとんど眠らないまま、大会の為早朝日吉に向かった。雨が降っていて、相鉄線は運転を見合わせ、その所為で市営地下鉄は怒涛の込み具合で、加えてJRの通勤ラッシュにつかまった。雨はずいぶん降っていて、どう考えても試合は無かったが、中止の連絡が来るまでは決行のつもりで動けとのこと、ようやく横浜に辿り着いたところで連絡が入った。
 早朝の横浜は下らない街だった。ラッシュから脱け出したくて一時間ほど徘徊したが、何も無かった。ただ人と塵だけが蠢いていた。腐乱臭の湿った風が濡れた古小路に塵芥を引き摺り、阿呆面の会社員たちが犬のように嬉々として人ごみの中を滑っていた。
 憤りなぞもはや生じる道理もなかった。ほとんど感覚の麻痺した、ごく微かな虚しさだけがそこにはあった。西口の奥まったところで上の空をした中年男性が雨滴る狭まった空を見上げて呟いていた。「上がらないなあ」彼には目の色が無かった。彼は傘をさしていなかった。ぼくはその横を通り過ぎて地下鉄の改札に向かった。

 頭の中で粘り気のある赤黒い思考がゆっくりと巡っていた。不健康だ、とぼくは思った。口の中が渇いて、コーヒーを飲みたいと思った。通勤ラッシュを終え、尚且つ下りの地下鉄は比較的すいており、座る場所はあったが、どうにも耐えきれなくって、二駅て立ちあがった。ドアのガラス窓に額を押し付けて、ただ時間が過ぎるのを待った。携帯の電池は切れていたし、音楽プレイヤーも部屋に置いてあったし、鞄に本を入れる隙間は無かった。じっとりと汗をかいた背中は心底不快で、もうどうにも戻りようのない朝のことを考えた。

 駅に着いてマクドナルドでハッシュドポテトとアイスコーヒーを頼んだ。五分ほどで朝食を済ませて、雨の中を帰宅した。昼過ぎまで眠った。



 イギリスに住んでいた頃、近所に住んでいた日本人の、一つ上の男の子がよくCDを焼いてくれた。収録されているのは全てJ-POPで、当時ビートルズとモーニング娘。ぐらいしか音楽を知らなかったぼくは、彼によってそれに対する興味を抱くようになった。
 その頃の音楽を聴くと、すごく寂しい気持ちになる。どうしてかは分からない。かつて当然のように起こっていた日々の出来事、ごく自然に行われていた人間関係は、今ではもう実現できないことなのだ。ぼくは14歳だったし、彼は15歳だった。ぼくより一年先に日本に帰った。彼と同時に帰国した当時の彼女は北海道で新しい彼氏を作っていた。

 八年…長い時間が過ぎた。ぼくにとっては長すぎる時間だ。



 美しい物事と、悲しい物事。この二つに関してのみ、ぼくらの理屈は永遠に通用しないのだと思う。その意味で、ぼくは女性の美しさを求めるのだし、人生と言うのはどういうわけか苦しいものなのだ。悲しいものなのだ。

 音楽は悲しい。それを説明することは出来ない。ただ、悲しいのだ。しかしそれこそが本質なのではないか。ぼくはそう思う。語り得ぬことこそが本質で、しかしそれを表現できないことには意味が無いのだ。そこで理屈を用いるのである。本質の周辺について論理的に語ることで、ぼくらはスクリーンに投影された影のような美しさ、悲しさを感じるのである。それは感覚だ。周囲を論じる中で、中心について感じ取るのだ。

 美しさと悲しさ。

 ぼくの頭を悩ませるのはいつもこの二つなのだ。

 ドロリとしたぼくの思考に、打つ手も無く、オレンジジュースを流し込む。

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