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厄介なのは、たいていの物事について、足元から落ちていってしまったあとになって、それが一体何だったのか判明するという事実だ。
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ソノムラと夕飯を食べた。彼は相変わらず面白い男だった。就労意欲はない、東大の院に進む準備をしているところだと言った。故郷の金沢には長いこと戻っていない。
「本を読んでも忘れてしまうんだ、だからおれは女を抱きたい」
彼はときどきもっともらしいことを言う。
「でも女のことも忘れてしまうのかもしれない」
ソノムラは本当に本をよく読む男で、まさにリアリストでもあった。
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忘れてしまう。たいせつなことも、ハイライトしたはずの一節も、女の子の仕草も、名画のワンシーンも、記憶の坂道を雨になって滑り落ちていく。分厚い雨雲の垂れこめた夜空を見上げるたびに、ぼくは絶望的な気分になった。だのに、記憶の零れ落ちたあとの窪みには、必ず悲しみが染みのように残っているのだ。生きるたびに、落とすことのできない悲しみが、増えていく。
ソノムラの言うことはある意味では正しい。
どうせ忘れてしまうのだ。そうして、どうしようもない悲しみだけがそこには残るのだ。
ぼくは安心した、恐れることはないのだ。
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