中途半端に酒を飲んで、しかも思いもよらぬ言葉をかけられて、気持が落ち着かず眠れないから、音楽を聴きながら朝の訪れるのを待っている。レコードを静かに回し続けている。鈍く重たい、熟れた果実のような眠気を背中に感じながら、ぼくは誠実さについて考えてみようと思う。
「こんな人が世界にはいるのかと思うほど、誠実だと思ったの」
酔っ払った彼女はそうぼくに告げた。どんな表情をしていたのか、どんな気持だったのか、どんな格好をしていたのか、ぼくは知らない。ただ、酒に酔って受話器に向かって叫んでいただけなのかもしれない。けれども確かにそう告げたのだ。誠実?
ぼくは誠実でありたいと思ってきた。今までずっとそれだけを考えていた。正直であること。
けれども、それゆえに、ぼくは多くの人を傷つけ、また、ぼく自身も深く傷ついた。中にはもう、永久に消えそうもない傷もある。ぼくは誠実であろうとするために、或いはそれが間違った姿勢の取り方であったとしても、取り返しのつかない悲しみに暮れてきた。
誠実さとは何か。ぼくはその問いを彼女に投げかけられたのかもしれない。無論、あの態度であれば、おそらく彼女はぼくのことを誠実であると信じているのだろう。ぼくは果して、誠実なのだろうか。ぼくは本当は、都合の良いようにふるまっているだけではないか。つまり、理屈をこねてあらゆる不誠実を正当化しているだけではあるまいか。
ぼくは本当に誠実なのか。
正直であるとはどういうことか。どうして誠実さを目指して女の子を傷つけるのか。そうして又、誠実さを目指すが故に、かくも絶望的な気持にならねばならぬのか。
誠実さというのは、本当は不要なのではないだろうか、とさえ思うのだ。つまり、女の子とぼくとがお互いに幸せであるためには、誠実さよりもバランスが大事なのではないか。ときには正直であり、ときには嘘をつかねばならないのではないか。
「本質を見よ」と言ったのはイワセ先生だ。中学一年の終わり、渡英して間もないぼくに向かって彼はそう告げ、そうして日本人補習校を去った。
誠実さの本質はどこにあるのか。
まだ酒が抜けきらない。頭は少しぼうっとしたままだ、しかしこれは眠気の所為かもしれない。
誠実さというのは、純粋なエゴイズムと表裏一体だ。少なくともぼくの場合はそうではないか。つまり、誰かを思いやるために正直であることよりも先に、自分にとって誠実でありたいと思うところのほうが強いのだ。誠実さを崩せば、ぼくはぼくでなくなってしまう。これは偏に、ぼくのコンプレックスだろう。弱い人間は、頭の中で頑丈な壁を作り上げなければならないからだ。
ぼくは自分自身に大きな自信と誇りを持っている一方で、どうしようもなく惨めで弱いのだ。それを自覚している。だからこそぼくは誠実さという隠れ蓑の中で、いつまでもじっとしているのかもしれない。
混乱している。けれども一つだけ確かなことがある。考えたところで変わりようのない事実、十年間も抱いてきた夢が今、現になろうとしているという、幸せのことだ。
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