2013/05/31

怠惰の日


 まともであろうとすればするほど、ぼくの性質は歪んで捩じれて曲がっていくような気がする。それは瞬間的なことがらに関しても、習慣的なことがらに関しても。その現況は分かっているのだけれど、それだけに何が根本的に間違っているのか分からない。ぼくは否定される。それはつらいことだ。もちろん周りの評価によって自分を変える必要はないが、それにしても確かに耳には入るし、視界にもうつる。そういったリアルな態度における批判が、ぼくのことを音も立てずに傷つけるのだ。

 それでも眠気覚ましにコンビニまで走ると、確かに空には星がある。それは悲しいほどに、張り付いるように変わらない。ときどき明滅するものがあるくらいのもので、ヘリすら音だけで通り過ぎていく。ぼくは自転車を漕ぎながら鼻歌を歌って、なんだかちっぽけさの安心感みたいなものを思い出す。アイスとビールを買って戻ってくる道で、ぼくの気持の移ろいやすさに少し照れくさくなった。そう、ぼくはちっぽけで、だからこそ肩の力を抜けばいいのだ。ひとまず、ぼくはこうして生きているじゃないか。何も心配は要らない。

 いずれにしろ、プレゼンの資料は作らねばならぬ。まだ一枚もスライドが出来上がっていないどころか、資料にすらほとんど目を通していない。なかなかの堕落っぷり、我ながら誇らしくもある。

2013/05/26

すべての悲しみにさよならするために

 

 何かに依存するのはやめようと思った。それは愚かなことだからだ。自分以外の全ての物事は、必ず最後にぼくのことを裏切る。それをぼくはついに知ったのだ。だからぼくはそういうふうに生きるし、そのポリシーに反する要素に対して、ぼくは容赦なく抗うだろう。なぜならぼくはぼくだけでしかないからだ。

 三日間、似非アカデミズムに没入しながら、一人悲しみに打ちひしがれていた。ぼくにとって経験や過去というのは美しく愛おしいものであると同時に、苦しいものでもある。過ぎ去ったことはもうどうすることもできない、そういう悲しみがそこには普遍的にあるまいか?そして未来にしたところで、過ぎた後にはやはり過去のものになってしまうのだ。その圧倒的な、普段意識しないだけに余計圧倒的な事実を前に、ぼくはこの自分の愚かさが強烈に情けなく思われるのだ。

 今だって、缶ビールを片手にレポートを書きながら、ぼくは何人かの女の子のことを考えずにはいられない。それがぼくの悪いところだ。或いは、昔のことを思い出してしまう。音楽は記憶を明瞭に蘇らせる。ミスチルの「未来」という曲はぼくにとって特別ノスタルジックな歌だ。それは色とは関係が無い。ただぼくの温く緩やかなイギリスでの二年間を思い出させるのだ。バークデイル・クローズの芝生、ミックルオーバーの丘の木々、リトルオーバーの煉瓦の校舎、そういったもの、或いは日曜の朝、ダイニングから匂い立つベイクド・ビーンズの香りや、自室の鏡の前で上裸に立ち、歪んだ胸に悩んだ夕暮れ。そういった日々。

 悲しみが部屋に充満していく。ぼくはこれをも愛らしく思うが、きっと決別をしなければならないのだ。それはときどき思い出すから有意義なのだ。ぼくには愛がある。そうしてしかも、それは一等信頼ならぬものだ。ぼくの愛ほど、不安定なものはない。

 曖昧にして具な感傷が足の裏に感じられる。圧倒的な悲しみを前に、ぼくたちには言葉は不要だ。そこでは存在性が住民権を持っている。ぼくらが涙を流そうが、愛を語ろうが、励まそうが、そんなものは重要ではないのだ。存在性、「本質を見よ」という昔の言葉が木霊している。
 

2013/05/25

何気なさの中で悲劇は始まる

 つくづく自分は身勝手な人間だなあと思う。よく晴れた金曜の夕方に、論文の分析の為に自転車を漕いで喫茶店に向かう間のことだ。引地川に架かる橋を渡って急峻な坂を上ると、背後から夕陽のあたたかさを感じる。少しじっとりと汗を感じて、ぼくは妙な寂しさに満たされる。それでもなお、ぼくは誰をもぼくの中に許そうとしないのだ。
 結句ぼくは、一人でありたいと望んでいるのかもしれない。「アンビバレンスな」という言葉を氏は用いた。まさにぼくは我執と欲求とのはざまにあって、まさにアンビバレンスな状況に佇んでいると言って過言ではなかろう。異常なまでの欲、理解されたいという欲求と、人のことを信頼してはいけない、誰かと触れたときにはぼくは居なくなってしまうのだという、切実な我執とが、ぼくの足元で入れ替わっては混ざり、そうしてぼくのことをどん底に落とし込もうとしている。

 いろいろなことを考える。どれもこれも雲散するべき戯言に思われ、ぼくはまたも悲しくなる。けれども又、悲しみの中にこそ本質があるというのも事実だ。オイディプス王は悲劇の中に本質を呈しただろう?けれどもさらには又一方で、「血が流れたときは、悲劇は終つてしまつた後なのである」というのも事実だ。或いはぼくは劇的な悲劇へと滑り落ちている最中なのではないか。もしぼくが鈍感でないとすれば、血が流れるまでにはとまれるはずだ。自己陶酔の中に身を滅ぼしてはならない。

 五木寛之の本を手に取った。喫茶店からの帰り道だ。けれども今のぼくにはもっと読むべき本が多くあるはずだし、何より金が無い。だから諦めた。幾つかの小説と、幾つかの論考を読んだけれど、はっきり言って、彼の本はぼくのことをもっとダメにするだろう。勿論、ぼくは彼の文章を読むのが好きだ、心地がいい。けれどもそれだけに、いまのぼくはもっと迎合的な文章、例えば福沢諭吉などの著作を読まねばならないのかもしれない―いや、まあ、どう転んでも読まないだろうけれど。

 そういえば、妙な夢を見た。一昨夜だ。
 夢の中でぼくは少年野球を観戦している。大学のある女の子と一緒だ。細かく雨が降り出して、ぼくらはベンチのようなところで雨宿りをしながら、なおも試合を見続ける。彼女は唐突に「こうすけ」さんが見た夢の話をする。
 「鯨と烏賊とナメクジが川の字になって並んで寝ているの。ナメクジは烏賊の背を、烏賊は鯨の背を見るような体勢ね。ナメクジは烏賊を食べてしまう。むしゃむしゃという音が鯨の背には聞こえて、少しぞっとする。次に、烏賊を食べたナメクジ(このナメクジはやっぱりすごく大きいのね)は鯨のことを食べようとこっちに寄ってくる。襲われるんだけれど、さすがに鯨には勝てない。鯨は逆にこのナメクジのことを食べちゃうのね。よかった、食べられなくてと思ってほっと安堵するんだけれど、それも束の間、ナメクジなんて食べられたもんじゃないからか、すぐに気分が悪くなって吐き出しちゃうの。そういう夢。さらに言えば、鯨は自分なの。鯨は「私」なのね、つまりこうすけという意味なのだけれど」

 どういう意味なのだろう?

 さらにその後には少年野球のコーチで、その球場の管理者で、さらには警察で勤めているという恰幅の良い豪快な男と会話をするのだけれど、そのくだりは忘れてしまった。

 その夢の話に女の子は「なんて面白い想像力なの」と喜んだ。けれどもぼくは気分が悪くって、それが何かを暗示しているようで、どこか恐ろしいのだ。直接的でない、一見無意味で無造作で、何気ないものごとの中にこそ、悲劇の種は潜んでいるように思われるから。

2013/05/22

背骨の軋む夜

 暑い日が続いている。ぼくは毎朝八時ごろには目を覚まして、洗濯をして、シャワーを浴びて、講義に出かける。自転車で十分も漕げばキャンパスに着くが、それでも汗ばむほどに、日差しは強い。空いた時間は食堂に行ったり、図書館で文章を書いたりしている。
 研究会で英語教育の話と、防災の話をしている。ぼくはきっとそれら二つをいっしょくたにして研究することが有効だろうと考えていたけれど、少しずつ、何となくずれ始めている。特に英語教育の方だが、二期目にして未だ内容に発展がうかがえない。

 ぼくが研究したいのは、災厄の表象についてだ。特に、文学。震災や戦争や、もっと抽象的に言うなれば喪失や死について描かれた文学について、本質的なレベルにおいて研究をしたいと思う。すごく興味のある分野だが、しかし如何せんぼくは勉強が嫌いだ。

 UCLAへ留学をしていた友人が先週帰国した。会いたいと言われたが、ぼくは会いたくない。なんだか遠くへ行ってしまったような気がするのだ。「何も変わっちゃいないよ」とは言うのだけれど、なんだろう、きっと怖いのだ。

 自分の矮小さが見え隠れして我執の皿から零れ落ちそうな近頃、夜半には正体不明の焦燥感が訪れる。知らず内に、そこはかとない重圧が、少しずつぼくのことを押しつぶそうとしている。みしみしと軋む音がする。きっとぼくの背骨だろう。

2013/05/13

友とコーヒーと嘘と胃袋

 悲しみは全て筋肉に変えてしまえばいいのだ。友よ、飲むよ、筋肉に変えてしまえばいいのだ。アールグレイよりもブルーマウンテンだし、信頼よりも猜疑だ。晴天を誉めるのなら夕暮れを待つべきだ。そういう生き方を取り戻そう。乱されることはない、ただぼくは淡々と腕立て伏せをすればいいのだ。それから自転車に乗って大学に向かおう。

美味しいトマトを食べる夢

きみというのは特定の誰かのことではない。ある種の概念ともいえないけれど、まあそういうものだ。それは外側からやってきて、けれど解決するには自分の中でなんとかするしかない。そこで外側に救いを求めようとすると、きっとまたぼくは、さらに損なわれるのだ。そういう種類の痛みだ。痣のようなものだ。

2013/05/12

嫌な気分だ

 苦しい思いをして、ここのところは遂にようよう自分のスタイルで居られた。それも元を辿れば少なからぬ妥協を経て、そのプロセスに辛苦を覚え、その果てにようやく辿り着いた場所であったのに、また搔き乱されている。ここ最近は、ぼくは良い状態でぼくであれたし、きみとも割合理想的なやり取りができていたと思うが、それはぼくがスタンスを大幅に変えたからだ。しかし、そのスタンスすら、根こそぎひっくり返されてしまうのであったら、もうぼくには努力の余地が無い。
 苦しい思いをして、諦めたのだ。ある種の諦めをまたきみは思い起こさせ、そしてさらにそれの取り消しを要求したかと思えば、二時間後にはまたもや嘘の種明かしを始めるのである。
 
 おれを壊す気か?とぼくは思う。

 このままでは本当に誰のことも信じられなくなる。

 確かに、それはある面においてぼく自身の至らなさにも因るだろう。でもね、確かにぼくは誠実さの上に苦悶しているのだ。確かにぼくは損なわれているのだ。あまりにアンフェアではないか?

 怒りや憎みは微塵もない、賭けてもいい。そこにあるのは悲しみだけだ。きみを信じればこそ、ぼくは今こうして底なしの悲しみに苦悶するのだ。

 ずいぶんまともになってきていた。精神的にも落ち着いていたし、周りにもそう言われた。けれども、またふりだしだ。これがどういうことなのか、分かるか?ぼくは他者によって損なわれ、自らの主体を捩じり歪められているのだ。

2013/05/10

ベルギービール

 洗濯をして、パスタを茹でて、ビールと一緒に食べた。午後一時の日差しは強くって、思わずカーテンを閉める。ピロウズを流しながらパスタを食べ終えて、うにあられなるツマミを引っ張り出してくると、新しい缶ビールを冷蔵庫から持ってきて、また食べ、飲む。何を考えるわけでもなかった。ただ、憂鬱さと心地よさというのはもしかしたら同じものなのかもしれないな、とぼんやり思った。

 ぼうっとしているのはすごく快適だ。女の子の体のことを考えたり、和歌山城の入り口にある小さな橋のことを思い出したり。或いは大学まで自転車で走る道々に咲くハルジオンのことを思う。ゆるやかな坂道を下るとキャンパスが見えてくるが、日によってはその向こうに富士山の聳えているのが見える。それは美しい光景だ。涼しげな春の風。和歌山城は思いのほか刺激的だ。フルートとクラシック・ギターの演奏が響いていたり、ちょっとした動物園があったりする。ツキノワグマの何とか君はいなかったけれど、リスザルのりっきーくんは居た。城からの眺めは素晴らしかった。紀の川がキラと光って、その向こうに和歌山大学が見えた。風が強かった。女の子の体については、特に書くことも無かろう。

 そろそろシャワーを浴びて出かけようかな、日々には刺激が必要なのだ。

2013/05/09

拘泥

 昨日、四人でラーメンを啜り、帰る間、自転車をひとりのろのろと漕ぎながら自分を恥じていた。それは、僕という人間が結局のところ、嫉妬と我執と怠惰をまぜこぜにしただけの人間のように感じたからだ。本当だったら口にもしたくないゲテモノを、丁寧に論理で塗って固めて、あるいはツヤさえ出して、一見美味しそうに、ある種の人には見えるように、そうでなくとも、それなりにまともには見えるように偽っているのだ。最も誠実でありたいと謳いながら、実は最も不誠実なのかもしれない。嫉妬と我執と怠惰、と僕は思った。確かに、その通りのように思えないか?

 「思うままに生きている人間が嫌いだ」と言う。例えば一か月の間に彼氏を三人かえてしまうような乳の大きい後輩だとか、無思考に本を読まずただ就職のことばかり考えている先輩。つまり、考えず、その瞬間思った通りに即発的に行動をとるような人間が、僕は嫌いだった。それを論理的に批判し、さらにその城は極めて頑固に建てられていたから、たいていの反論ははねつけた。

 けれども、僕はどうだ?

 僕も大差ないのだ。女の子のこととなると全く点で本能主義的だし、就職はただ面倒なだけだ。思考しているなどと言い訳をして何も行動をしない。努力をしない、忍耐を避ける。僕はそういう人間なのだ。そして羨望と嫉妬に溺れるのを恐れ、また論理の船を漕いでさっさとわたり切ってしまうのである。

 旅に出るのは何故か?これもまた、精神的な弱さの結果なのかもしれない。

 何が必要なのか?行為?

2013/05/07

川面に現を見る

 連休が明けて、授業が再開された。移動中、あまりの眠さに何度か身体がぶるぶると震えた。だのにどういうわけか眠ることはできず、気を紛らすためにガムを噛んでみても、コーヒーを口にしてみても、絶え間ないその気だるさが午前中の僕のことをずっと支配し続けて止むことはなかった。
 明日の午後までに書かなければならない文章があるが、今夜は友人のバースデーパーティだし、それまでの時間のほとんどは、研究会に費やされる。あと十五分もすればそのゼミが始まるから、書くとすれば今夜か明日の朝なのだけれど、この眠気をどこに追いやればいいのかも分からず、悶々としている。ラスコーリニコフへの共感もさることながら、やはり僕は僕自身について極度に美化しているようだ。首筋に張り付いて消えない感覚が毒のように脳みその表面を少しずつ覆って、その全体が麻痺しようとしているのが分かる。僕はそれについて抵抗する権利も能力も持ち合わせていない。それは予定されたことのように、淡々と決められた順序で以て僕の身体を侵食していく。
 ただし、それは決して苦痛ではないのだ。苦痛を伴う快楽と言ってもよい。その妙な感覚は、少なからず午前のまどろみに依存しているようだ。しかしまた、徹頭徹尾僕自身において完結されている。僕の内部で始まり、そして同様に内部で終わるのだ。確かに、その発端が他者性をたぶんに孕んでいることは否定できない。けれども、やはりそれは僕の中のみで発生し、そして沈静化する。
 もぐもぐと一人で考えながら、僕は麻痺を待つ。それが完全に訪れたとき、僕は深い眠りに安息するに違いないのだ。それは僕の振る舞いとはまったくの無関係に、必然的に生じる自発的な安らぎに他ならない。


2013/05/04

放浪と放蕩

 S村との約束を果たすべく、というのは明らかに偶発的な結果論に過ぎないわけだが、いずれにしろ、ぼくはその約束の結実を理由の半分に、放蕩に耽っている。確かに、些か迷いはした。迷いというのは、熟考のことである。しかし、ぼくは決断したのだ。きっとこれは、ぼくにとって大きな意味を持つに違いない。それは精神の放浪に他ならない。宛ても無く、いるべき場所以外のどこかを彷徨うのだ。確かにそれには意味があるはずである。なぜなら、ぼくという存在に属さない何らかには、確実にぼくの含まないいずれかの種類の気配が根付いているはずだから。

 実を言えば、ぼくにはやはり目的なんかない。ただ単に、結果的にそれらしい意味をつけているだけだ。言い訳にも似ている。自らの奥深くにある何かに従おうと、ただ静寂に耳を傾けているだけに過ぎないーいや、それはむしろ、そのための試みとさえ呼べない程度のものかもしれない。態度を顕示したいだけではないか?仮にそうだとしても、自室の汚れたベッドで蠢いているよりはよっぽどましだ。それはグレーゴル・ザムザが七年前に教えてくれたことではなかったか。

 悦楽に浸りたいというのもまた、二次的な、表面的な目的に過ぎない。それは最早、本質的ではない。ぼくにとって大切なのは、ぼくの位置だ。ぼくが今どこにいるのか、きちんと二本の足で土を踏んでいるのか。ぼくの隣には、背後には誰がいるのか。そしてぼくは何者なのか。そういったことを把握するために、ぼくは方法論としてたまたま悦楽を通過するに過ぎないのだ。これは嘘ではない。

 ぼくは嘘をつきたくない、ただ、嘘というのは、真実の嘘のことだ。確かにぼくは幾つかの偽りを身にまとっている。しかし、それは許されるべき偽りだ。たとえば、本当のところを言えば、ぼくは今すぐにでも死にたい。そういうことだ。

 これはメタファーだ。精神的な放蕩には決して実態が伴わない。全ては仮象の世界に埋没しているものごとだ。けれども、だからこそ本質的なのだ。これがぼくの今主張したいことの大枠になる。実際に何が起きているのかーつまり肉体的に、或いは物理的にということだがーという問題は、まったくこれに無関係であるどころか、或いは逆の要素がそこには孕んでいる必要性が、ある側面においてはあると言えるだろう。

 ほんの少しだけ酒が入っている。心地がよい。もう少し飲もうと思う。野菜炒めだ。

2013/05/01

咳をしてもペロリ

 夜まで大学で作業をしていた。九時前に図書館から外に出ると、それまでほとんど降っていなかったのに、雨が落ち始めてきた。駐輪所につくころにはちょっとした本降りに入り始めて、ぼくは諦めてそのままバス停まで歩いた。咳がまた出だした。ぼくはぼんやりと「直観」について考えていた。それは今夜が提出期限のレポートのテーマで、課題文は「直観について考察しなさい。」そいう一文のみであった。
 明日から怒涛の連休がはじまる。珍しく、暇がない。ゆったりとした時間を過ごしたいのだけれど、そうもいかないのだ。ぼくはもう少し、行為に身を寄せてみる。認識の形を注意深く観察しながら、その変形、或いは普遍を記録できたらいい。ぼくの予想では、最後まで何も変わりはしないだろう。大抵の場合、ぼくはぼくの思っている以上に愚かだからだ。

森薫るハイボール

 気功のおかげか、安定している。もちろん頭の中はぐるぐるぐるぐるしているけれど、森の奥深くまで木々をかいくぐって進んでいくと小さな池があって、ぼくの心はその水面のように静謐さを保っているようだ。時折はらりと落ちる緑の木の葉が柔らかな波を円状に広げて、消える。深い影の中にはそういった明るさがある。木漏れ日に鱗のような反射を跳ね返して、心地よく湿った土からは昨晩まで降っていた静かな雨の匂いがする。
 激しい眠気の中には、そういった静謐さがある。帰宅してシャワーを浴びて、新しいシャツを着た。少し時間があるから、レコードを置いてこの文章を書いている。
 いろいろな思いが去来する。けれども、いまは一先ず、それらから一歩離れて、この心地よさに身を浸そうではないか。そんなことを思うのだ。