何かに依存するのはやめようと思った。それは愚かなことだからだ。自分以外の全ての物事は、必ず最後にぼくのことを裏切る。それをぼくはついに知ったのだ。だからぼくはそういうふうに生きるし、そのポリシーに反する要素に対して、ぼくは容赦なく抗うだろう。なぜならぼくはぼくだけでしかないからだ。
三日間、似非アカデミズムに没入しながら、一人悲しみに打ちひしがれていた。ぼくにとって経験や過去というのは美しく愛おしいものであると同時に、苦しいものでもある。過ぎ去ったことはもうどうすることもできない、そういう悲しみがそこには普遍的にあるまいか?そして未来にしたところで、過ぎた後にはやはり過去のものになってしまうのだ。その圧倒的な、普段意識しないだけに余計圧倒的な事実を前に、ぼくはこの自分の愚かさが強烈に情けなく思われるのだ。
今だって、缶ビールを片手にレポートを書きながら、ぼくは何人かの女の子のことを考えずにはいられない。それがぼくの悪いところだ。或いは、昔のことを思い出してしまう。音楽は記憶を明瞭に蘇らせる。ミスチルの「未来」という曲はぼくにとって特別ノスタルジックな歌だ。それは色とは関係が無い。ただぼくの温く緩やかなイギリスでの二年間を思い出させるのだ。バークデイル・クローズの芝生、ミックルオーバーの丘の木々、リトルオーバーの煉瓦の校舎、そういったもの、或いは日曜の朝、ダイニングから匂い立つベイクド・ビーンズの香りや、自室の鏡の前で上裸に立ち、歪んだ胸に悩んだ夕暮れ。そういった日々。
悲しみが部屋に充満していく。ぼくはこれをも愛らしく思うが、きっと決別をしなければならないのだ。それはときどき思い出すから有意義なのだ。ぼくには愛がある。そうしてしかも、それは一等信頼ならぬものだ。ぼくの愛ほど、不安定なものはない。
曖昧にして具な感傷が足の裏に感じられる。圧倒的な悲しみを前に、ぼくたちには言葉は不要だ。そこでは存在性が住民権を持っている。ぼくらが涙を流そうが、愛を語ろうが、励まそうが、そんなものは重要ではないのだ。存在性、「本質を見よ」という昔の言葉が木霊している。
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