2013/05/25

何気なさの中で悲劇は始まる

 つくづく自分は身勝手な人間だなあと思う。よく晴れた金曜の夕方に、論文の分析の為に自転車を漕いで喫茶店に向かう間のことだ。引地川に架かる橋を渡って急峻な坂を上ると、背後から夕陽のあたたかさを感じる。少しじっとりと汗を感じて、ぼくは妙な寂しさに満たされる。それでもなお、ぼくは誰をもぼくの中に許そうとしないのだ。
 結句ぼくは、一人でありたいと望んでいるのかもしれない。「アンビバレンスな」という言葉を氏は用いた。まさにぼくは我執と欲求とのはざまにあって、まさにアンビバレンスな状況に佇んでいると言って過言ではなかろう。異常なまでの欲、理解されたいという欲求と、人のことを信頼してはいけない、誰かと触れたときにはぼくは居なくなってしまうのだという、切実な我執とが、ぼくの足元で入れ替わっては混ざり、そうしてぼくのことをどん底に落とし込もうとしている。

 いろいろなことを考える。どれもこれも雲散するべき戯言に思われ、ぼくはまたも悲しくなる。けれども又、悲しみの中にこそ本質があるというのも事実だ。オイディプス王は悲劇の中に本質を呈しただろう?けれどもさらには又一方で、「血が流れたときは、悲劇は終つてしまつた後なのである」というのも事実だ。或いはぼくは劇的な悲劇へと滑り落ちている最中なのではないか。もしぼくが鈍感でないとすれば、血が流れるまでにはとまれるはずだ。自己陶酔の中に身を滅ぼしてはならない。

 五木寛之の本を手に取った。喫茶店からの帰り道だ。けれども今のぼくにはもっと読むべき本が多くあるはずだし、何より金が無い。だから諦めた。幾つかの小説と、幾つかの論考を読んだけれど、はっきり言って、彼の本はぼくのことをもっとダメにするだろう。勿論、ぼくは彼の文章を読むのが好きだ、心地がいい。けれどもそれだけに、いまのぼくはもっと迎合的な文章、例えば福沢諭吉などの著作を読まねばならないのかもしれない―いや、まあ、どう転んでも読まないだろうけれど。

 そういえば、妙な夢を見た。一昨夜だ。
 夢の中でぼくは少年野球を観戦している。大学のある女の子と一緒だ。細かく雨が降り出して、ぼくらはベンチのようなところで雨宿りをしながら、なおも試合を見続ける。彼女は唐突に「こうすけ」さんが見た夢の話をする。
 「鯨と烏賊とナメクジが川の字になって並んで寝ているの。ナメクジは烏賊の背を、烏賊は鯨の背を見るような体勢ね。ナメクジは烏賊を食べてしまう。むしゃむしゃという音が鯨の背には聞こえて、少しぞっとする。次に、烏賊を食べたナメクジ(このナメクジはやっぱりすごく大きいのね)は鯨のことを食べようとこっちに寄ってくる。襲われるんだけれど、さすがに鯨には勝てない。鯨は逆にこのナメクジのことを食べちゃうのね。よかった、食べられなくてと思ってほっと安堵するんだけれど、それも束の間、ナメクジなんて食べられたもんじゃないからか、すぐに気分が悪くなって吐き出しちゃうの。そういう夢。さらに言えば、鯨は自分なの。鯨は「私」なのね、つまりこうすけという意味なのだけれど」

 どういう意味なのだろう?

 さらにその後には少年野球のコーチで、その球場の管理者で、さらには警察で勤めているという恰幅の良い豪快な男と会話をするのだけれど、そのくだりは忘れてしまった。

 その夢の話に女の子は「なんて面白い想像力なの」と喜んだ。けれどもぼくは気分が悪くって、それが何かを暗示しているようで、どこか恐ろしいのだ。直接的でない、一見無意味で無造作で、何気ないものごとの中にこそ、悲劇の種は潜んでいるように思われるから。

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