2013/05/07

川面に現を見る

 連休が明けて、授業が再開された。移動中、あまりの眠さに何度か身体がぶるぶると震えた。だのにどういうわけか眠ることはできず、気を紛らすためにガムを噛んでみても、コーヒーを口にしてみても、絶え間ないその気だるさが午前中の僕のことをずっと支配し続けて止むことはなかった。
 明日の午後までに書かなければならない文章があるが、今夜は友人のバースデーパーティだし、それまでの時間のほとんどは、研究会に費やされる。あと十五分もすればそのゼミが始まるから、書くとすれば今夜か明日の朝なのだけれど、この眠気をどこに追いやればいいのかも分からず、悶々としている。ラスコーリニコフへの共感もさることながら、やはり僕は僕自身について極度に美化しているようだ。首筋に張り付いて消えない感覚が毒のように脳みその表面を少しずつ覆って、その全体が麻痺しようとしているのが分かる。僕はそれについて抵抗する権利も能力も持ち合わせていない。それは予定されたことのように、淡々と決められた順序で以て僕の身体を侵食していく。
 ただし、それは決して苦痛ではないのだ。苦痛を伴う快楽と言ってもよい。その妙な感覚は、少なからず午前のまどろみに依存しているようだ。しかしまた、徹頭徹尾僕自身において完結されている。僕の内部で始まり、そして同様に内部で終わるのだ。確かに、その発端が他者性をたぶんに孕んでいることは否定できない。けれども、やはりそれは僕の中のみで発生し、そして沈静化する。
 もぐもぐと一人で考えながら、僕は麻痺を待つ。それが完全に訪れたとき、僕は深い眠りに安息するに違いないのだ。それは僕の振る舞いとはまったくの無関係に、必然的に生じる自発的な安らぎに他ならない。


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