2013/05/04

放浪と放蕩

 S村との約束を果たすべく、というのは明らかに偶発的な結果論に過ぎないわけだが、いずれにしろ、ぼくはその約束の結実を理由の半分に、放蕩に耽っている。確かに、些か迷いはした。迷いというのは、熟考のことである。しかし、ぼくは決断したのだ。きっとこれは、ぼくにとって大きな意味を持つに違いない。それは精神の放浪に他ならない。宛ても無く、いるべき場所以外のどこかを彷徨うのだ。確かにそれには意味があるはずである。なぜなら、ぼくという存在に属さない何らかには、確実にぼくの含まないいずれかの種類の気配が根付いているはずだから。

 実を言えば、ぼくにはやはり目的なんかない。ただ単に、結果的にそれらしい意味をつけているだけだ。言い訳にも似ている。自らの奥深くにある何かに従おうと、ただ静寂に耳を傾けているだけに過ぎないーいや、それはむしろ、そのための試みとさえ呼べない程度のものかもしれない。態度を顕示したいだけではないか?仮にそうだとしても、自室の汚れたベッドで蠢いているよりはよっぽどましだ。それはグレーゴル・ザムザが七年前に教えてくれたことではなかったか。

 悦楽に浸りたいというのもまた、二次的な、表面的な目的に過ぎない。それは最早、本質的ではない。ぼくにとって大切なのは、ぼくの位置だ。ぼくが今どこにいるのか、きちんと二本の足で土を踏んでいるのか。ぼくの隣には、背後には誰がいるのか。そしてぼくは何者なのか。そういったことを把握するために、ぼくは方法論としてたまたま悦楽を通過するに過ぎないのだ。これは嘘ではない。

 ぼくは嘘をつきたくない、ただ、嘘というのは、真実の嘘のことだ。確かにぼくは幾つかの偽りを身にまとっている。しかし、それは許されるべき偽りだ。たとえば、本当のところを言えば、ぼくは今すぐにでも死にたい。そういうことだ。

 これはメタファーだ。精神的な放蕩には決して実態が伴わない。全ては仮象の世界に埋没しているものごとだ。けれども、だからこそ本質的なのだ。これがぼくの今主張したいことの大枠になる。実際に何が起きているのかーつまり肉体的に、或いは物理的にということだがーという問題は、まったくこれに無関係であるどころか、或いは逆の要素がそこには孕んでいる必要性が、ある側面においてはあると言えるだろう。

 ほんの少しだけ酒が入っている。心地がよい。もう少し飲もうと思う。野菜炒めだ。

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