たくさんのことを忘れてしまった。ぼくはいつも、大切なことも全て忘れてしまう。そういう人間なのだ。その性質のせいでこれまで多くの失敗をしてきたし、幾度も傷つけ、傷ついてきた。それについてぼくは、長い間かけて、何度も何度も思い悩んだ。永遠のような反芻の果てに、ぼくが気付いたのはただひとつだけである。それは、どうしようもないということだ。ぼくは忘れるのだし、きっとそのせいで、忘れられてしまう存在でもあるのだろう。結局のところ、ぼくというのはそういう人間なのである。本質的な性質としての忘却は、ぼくからはきいっと拭い去ることができないのだ。
だからと言うわけではないけれど、忘れることに関して、ぼくのことを責めないでほしい。これはある意味では不可能だ。けれど、そういう側面での話ではない。なんというか、そう、これは細やかな期待だ。往々にして悲劇につながるところの、期待というやつである。
2013/04/30
2013/04/24
春の夜の雨
春の夜の雨。二コマ連続するプログラミングの講義の合間にS村と話す。カラマーゾフはまずまず面白かったよと涼しく答える彼。半島を出でよは読むべきだ、それからね、やっぱり豊饒の海さと彼。ぼくは面目ないなあと思った。ぼくはそのどれも途中で断念しているのだ。すごいなあ、多読だなと言うと彼は「でもね、決して速いわけではないよ。ゆっくりじっとり、時間をかけて読むんだ」と答えた。「この雨みたいにね、なんつって」
S村は慶應には珍しく、ウィットに富んだ男だ。「おれはよ、女子高生とそういういやらしいことがしたいんだ。だから塾講をはじめたけど、男子中学生ばかり任されるんだもの、参っちまった。あいつら、馬鹿なんだもの」
村上春樹の新作も読み終えたと言った。「おまえは海外作家を読むんだろ、おれはからっきしだもの、せいぜいロシアかドイツだ」しかし彼は大江健三郎についても「大抵は読んだぞ、特に好きと言うのでもないけど」と言う。毎晩深夜まで大学の図書館で一人本を読んでいるのだ。ぼくは酒ばかり飲んでいる。二か月前まで女子高生だった女の子たちをぼんやりと眺めている。ぼんやりと…。
彼は不思議な話し方をする。本当に変な奴だ。
「大学を辞めて田舎に帰ろうかとも思ったんだけれど、四年間はとりあえず迎合してみることにしたんだ。洗練にもきっといろいろな形があるんだよ。そう信じてみることにした」
S村は石川県からやってきた。金沢の隣の隣の、小さな街だ。「冬にはどっさり雪が降る。石川にはね、二種類しか土地が無い。金沢か、金沢以外。金沢大学もパスしたんだけれど、神奈川の『横浜以外』にも少し興味があったんだ。思った通り退屈だ。違いは雪の有無だけだ」
春の夜の雨。S村は図書館に向かって、ぼくはバスで転寝を繰り返しながら駅へ帰った。落ち合ったサークルの連中と十数名で中華料理屋に行き、なんだか大味で量だけ多い料理を食べた。そのあと飲みに行こうと誘われたけど、体が鉛のように重たかったから、ゆっくりと歩いて帰ってきた。正直言って、うんざりだった。「若さってなんだろうなあ」と一年の頃、S村が呟いていたのをふと思い出した。若さとはなんだろう。ぼくは一年生の男女を見ると、微笑ましくも、愚かしく思われる。もちろん、どちらも抗いがたい性質だ。ぼくも二年前は少なからず彼らのようなふうだったろうし、若いというのはきっと、本質的にそういうものなのだ。ただ、もっと何かある気がするのだ。難しいなあ。
腕立て伏せをして風呂に浸かって、LPに針を落としてビールを飲みながらこの文章を書いている。ものすごく眠い。S村はきっとまだ本を読んでいることだろう。「ものすごく暇なんだ。だから読む」とさっき彼はぼくに言った。そういう感覚をぼくは、大学に入ってから忘れてしまった。これはきっと悲しい形の洗練なのだろう。春の夜の雨の音すら聞こえやしない。なんとなく缶に耳をあてると、ようやく気泡のはじける音がする。最後の曲が終わる。
2013/04/22
外野ノックを打ちました
眠い。今日はひたすらに眠かった。すごく良い天気で、日差しが強く暖かかった。ぼくは二限の始まる一時間近く前に大学に到着して、鴨池のほとり、生い茂る緑色の芝生に寝転がって本を読んだ。気持ちよかった。けれども眠かった。授業で寝て、研究会でも寝た。それからグラウンドに行くと、それまでの暖かさは冷たい風によって失われていた。練習を終えてハンバーグを食べて帰宅して、一時間眠ると女の子からの着信履歴が残っていた。かけなおそうかとも思ったけれど、風呂に入りたくてひとまずはやめた。これから腕立て伏せをして、風呂に入って、それでもまだ余裕があればかけなおそうと思う。とにかく眠いのだ。明日明後日は怒涛の火曜水曜、体力には万全を期する必要があろう。
*
「そりゃそうさ。みんないつか死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろいろなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
*
「そりゃそうさ。みんないつか死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろいろなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
自転車を買った
腕立て伏せをしてシャワーを浴びて自転車を買いに出かけた。一番安くて一番シンプルなものを選んで、そのまま乗っかって帰ってきた。途中で焼肉の誘いを受けて、駅前の店で肉を焼いた。それから解散をして、あるグループはカラオケへ、またあるグループはバッティングセンターへ行った。Y根とぼくだけが残った。バッティングセンターまで自転車を漕ぐには寒すぎたし、カラオケの閉塞感に耐えられるほど腹はもう減っていなかった。ぼくらは何となくバーに入って、エンガワのポン酢和えをつまみに酒を少しだけ飲んだ。
Y根は思っていたよりもおもしろい男だった、と書くとなんだか上から見ているようにうつるけれど、本当に、純粋に驚いた。彼は二年で、もう出会って一年が経過していたのだけれど、今までの印象と今夜とでは全く違った。ぼくたちは学問の話をして、就活の話をして、大学の話をして、人間の話をした。ぼくは嬉しくてつい、少し酔っ払ってしまった、帰り際、「またお話をしましょう」と言ってくれた。きっとあれは本心だろう、信じている。ぼくは心底嬉しかった。大学にかような話をできる人間は本当に限られていて、その詰まらなさに正直うんざりしてしまいがちなのだけれど、彼のような男がいてくれると、ぼくとしては本当に助かる。ありがとう。
*
延命をして、或いは、金を稼いで、そういったことに絶対的な価値を置く。病に冒されても長く生きられれば生きられるほどよいとされるし、就職したならばより多くの資産を手に入れることが賞賛される。しかしね、その生き方は本当に危険だ。なぜなら、彼らは間違いなく、敗北するからだ。
ぼくらはみな死ぬ。死んだら命は無くなるし、貨幣にも価値はなくなる。彼らは敗北するのだ。
価値を置く場所には慎重にならねばならない。
Y根は思っていたよりもおもしろい男だった、と書くとなんだか上から見ているようにうつるけれど、本当に、純粋に驚いた。彼は二年で、もう出会って一年が経過していたのだけれど、今までの印象と今夜とでは全く違った。ぼくたちは学問の話をして、就活の話をして、大学の話をして、人間の話をした。ぼくは嬉しくてつい、少し酔っ払ってしまった、帰り際、「またお話をしましょう」と言ってくれた。きっとあれは本心だろう、信じている。ぼくは心底嬉しかった。大学にかような話をできる人間は本当に限られていて、その詰まらなさに正直うんざりしてしまいがちなのだけれど、彼のような男がいてくれると、ぼくとしては本当に助かる。ありがとう。
*
延命をして、或いは、金を稼いで、そういったことに絶対的な価値を置く。病に冒されても長く生きられれば生きられるほどよいとされるし、就職したならばより多くの資産を手に入れることが賞賛される。しかしね、その生き方は本当に危険だ。なぜなら、彼らは間違いなく、敗北するからだ。
ぼくらはみな死ぬ。死んだら命は無くなるし、貨幣にも価値はなくなる。彼らは敗北するのだ。
価値を置く場所には慎重にならねばならない。
2013/04/21
檸檬
僕にしては珍しいくらいに長い文章を書いて、すぐに消した。便利なもので、CtrlとAとを同時に押して、そのあとでバックスペースをはねれば全てが霧消してしまうのだ。物語はゆっくりと弧を描いて空を貫き、地面に触れ、そして蒸発するように失せてしまった。僕は空き缶の底のような気分になる。暗くて、固くて、それでいて湿っぽい。
少なくとも、僕には事実として挙げられることが一つある。三年前の僕は、今の僕よりもずっと若かったということだ。とりもなおさず、僕は透明であった。今となっては何ものとも比べることができない。しかし僕の記憶には、遠く離れた場所には、確かにその感覚が見えるのだ。
僕にはそれを取り戻すことはできないと思っていた。けれども、それは間違いなのかもしれない。朝から続いていた雨が上がって、僕はそんな風に考えた。何かが変わるとすれば、それは今だった。呼吸を整えて、ゆっくりと目を閉じる。
2013/04/19
味噌汁を飲もう
カラムーチョを頬張りながらビールを仰いで、音楽を聴く。どかどかと喧しいサウンドがレコードから滲んで出てきて、曇り模様の午前を憂いてなお彩る。キスのことを考える。橙の豆電を見上げながら金のことを考える。薄暗闇に鎮座するのは歪な体の二十一歳で、救いようのない閉塞感で辺りはいっぱいになっている。袋小路だ、とぼくは思う。
先日の飲み会には、一流企業の内定をむんずと掴んだ先輩が多く来た。サークルのほとんどの四年生は、例年大企業に就職していく。彼らは誇らしく武勇伝を謳い上げ、やおら苦々しげにぼくらに訓示を垂れ給う。「キミタチが思っているよりも、就活なんて大したことないさ」と涼しげな顔を張り付けてビールを一息に飲む彼らに、ぼくは何か複雑な気持を抱かずにはいられない―無論、底なしの羨望があってこそ、その複雑さは生じるのに他ならないのだけれど。
祖父や父親を見ていると、ぼくもまあ大丈夫だろうと思える。けれど、大丈夫とは一体なんだ?ぼくは彼らとは違うし、何より時代だって違う。「おまえなら大丈夫だ」と周りは言うけれど、ぼくにはそうは思えない。例え大丈夫だったとして、ぼくはそれに満足できるか?血反吐を吐くまで飲まされて、それが価値を持つような場において、果してぼくは疑問を抱かずにいられるか?―否である。
だからと言って「公務員試験を受けろ」と言われても、イマイチパッとしない。こういう考え方はナマケモノの、いわゆるニートの考え方だろうか。おそらく親にでも垂れてみろ、すぐに一蹴されてしまうだろう。何かしたいことはないのか、と聞かれる。ぼくには確かに、ひとつだけしたいことがあるのだ。それは書くことだ。けれどぼくには書くことができない。
幾度と書こうと試している。例えば、先月末には文藝賞の締め切りがあったろうし、再来月には文学界新人賞のがある。にもかかわらずぼくには未だ書くことができない。だからほとんど諦めているのだ。
愚痴が過ぎた。これはただの記録だ。今日は映画でも観ながら少し部屋を片付けようと思う。何もかもが単調だ。味噌汁を飲もう。
2013/04/17
研究会と思い
二度目の大木研究会。地震学者のもとに集いて防災コミュニケーションを研究するのだけれど、やはり面白い。何より先生が美人である。先週は選抜やらゼミの説明やらがあったため、本格的な活動は今日よりスタートであった。共に選抜を受けた友人らはみな落ちてしまって、ぼくは一人ぼっちではじめ座っていたのだけれど、ふと隣の男の子に声をかけたなら、なんと彼は経済学部三年、三田の学生であった。藤沢の辺境まで、はるばる一時間半かけてやってくると言う。ぼくはしめたと思って彼と仲良くなった。
終わりしのち、駅の大戸屋で一緒に晩飯を食べながら、研究について思うところを共有した。論点はハードとソフトとのことになった。つまり、技術や知識といった側面と、人の内的認識や危機感といった側面との対立構造についてである。
面白いことに、ぼくら二人の意見はほとんど真逆であった。ぼくが表象の方法や強烈に感情的なインパクトで以て内的な認識に強い危機感を喚起するという方法論を説いた一方で、彼は科学の普遍性にやはり則るべきであると説いた。彼の話は実に面白かった。ぼくは感心してしまった。
國枝というフランス語、フランス文学を専門にする教授の授業で、昨年「災厄を表象すること」をテーマにした「言語とヒューマニティ」という講義を履修していた。そこでぼくは衝撃を受けたものである。それまでは知り得なかった文学の働きを知った。そして今学期、上のような研究会が新設されたときに、真っ先に思い出したのが「文学も実益に繋がり得る」ということであった。災厄を表象するということは、実は極めて生産的なことなのかもしれない。
20時までは疲れるけれど、しかし得るところも大きい。
今日は憎きプログラミング(これが無ければ如何に楽であることだろう)。そののちサークルの最終新歓飲みがあります。お暇な方は是非。
終わりしのち、駅の大戸屋で一緒に晩飯を食べながら、研究について思うところを共有した。論点はハードとソフトとのことになった。つまり、技術や知識といった側面と、人の内的認識や危機感といった側面との対立構造についてである。
面白いことに、ぼくら二人の意見はほとんど真逆であった。ぼくが表象の方法や強烈に感情的なインパクトで以て内的な認識に強い危機感を喚起するという方法論を説いた一方で、彼は科学の普遍性にやはり則るべきであると説いた。彼の話は実に面白かった。ぼくは感心してしまった。
國枝というフランス語、フランス文学を専門にする教授の授業で、昨年「災厄を表象すること」をテーマにした「言語とヒューマニティ」という講義を履修していた。そこでぼくは衝撃を受けたものである。それまでは知り得なかった文学の働きを知った。そして今学期、上のような研究会が新設されたときに、真っ先に思い出したのが「文学も実益に繋がり得る」ということであった。災厄を表象するということは、実は極めて生産的なことなのかもしれない。
20時までは疲れるけれど、しかし得るところも大きい。
今日は憎きプログラミング(これが無ければ如何に楽であることだろう)。そののちサークルの最終新歓飲みがあります。お暇な方は是非。
2013/04/16
2013/04/15
憐れな男
起き抜けに吐き気を覚えるのはずいぶん久しぶりのことだ。自棄になって酒を煽ったのも久しぶりであった。正直のところ、ぼくの方はずいぶんと崖っぷちで、左腕の肘の辺りなんて、二年前のように少しずつ荒れ始めている。田中の共喰いという小説を思い出す。あの生臭さ、単調な気怠さ、生の退屈さ。喉が著しく痛む。大酒のあとの眠りには鼾が伴う。何故かエアコンがついていて、空気の乾燥したのも一因にはなっているようだ。髪の毛はがしと音を立てそうに気持ち悪く、はっきり言って、最悪の朝だ。
マジカル・ミステリー・ツアーに針を落としても、音は妙に膨張してぼくを嫌う。袋小路にセイウチが跳ねている、ククック・ジュウ!58円のペットボトルの緑茶を飲み干す頃には風呂が沸いたので、入る。凝り固まって張っている左肩をなんとなく撫でながら、まだなのか、と思う。
”或いは、それはぼくのことではないのか?”
”そうであったならば、はっきりと明示してほしい。”
いままでほとんどかのように感じたためしはないけれど、如何せんぼくには今、余裕と言うものが無い。それをいっぺん信頼したならば、最後に落胆するのがあまりにも怖いのだ。ぼくに今必要なのは、信頼できるものだ。それがぼくについてでないのだとしたら、それを今のうちから明示してくれさえすれば、事実を事実として信頼することができる。
つまり、「まだ言っていない」、「きみ」というのが自分に関する何らかではあるまいかと思うほどに、ほとんど誤解するほどに、圧倒的な自意識過剰が、窮地の混乱においてぼくの中に渦巻き始めているのである。それを苦せず解くならばいまのうちで、これが拗れると面倒なことになりかねないのだ。
ひどく情けない。けれど、ぼくには今余裕がないのだ。頼む。
…恐怖に震える。迸る血潮のイメージがなぜか、脳裏に焼き付いて離れない。
2013/04/12
大いに眠れり
夜中の一時ごろ眠りについて、昼十一時に目覚めて、昼食を済ませて、十五時まで眠っていた。十四時間ほど眠り続けて、ようやく先程寝床から起き上がったところなのだけれど、体が気怠い。なんだろう、悲しい気持ちがする。今や日は傾ききり、薄闇がぼんやりとぼくの部屋と意識とを包んで隠そうとしている。ぼくは一人ぼっちで胡坐をかいて、この文章を書いている―少しずつ夜のヴェールに覆われていく意識はまた、徐々に眠りへと引きずり込まれていく。
ぼくは隠されようとしているのかもしれない。何者かによって、夜という大きな布を被されて隠ぺいされようとしているのか。そんな気さえしてしまう。身体全体がぶよぶよとむくんだ感覚がして、それに内包されているはずの意識は猛烈に朦朧としている。白い壁に反射する弱光が頭痛を誘い、消してしまいたいのだけれど、そんなことをすると愈々また、眠り込んでしまうことになる。それではあまりに悲しいではないか。ぼくには幾つものすべきことがあるのだ。
お茶を一気に流し込んでみたけれど、それはぼくのことをさらに落胆させるに過ぎなかった。食道を流れていく液体の感覚は、ぼくの知っているそれとはかけ離れている。それは何か、異物と異物とが接触している振動を、外から触れて感じているような、そういう感覚だ。お茶の滑っていく壁はぼくのそれではなかった。何かひどく人工的で、精密な計算に則った出来事のように思われた。その確かな乖離―無論、事実その食道は言うまでもなくぼくのものであるけれど、意識の上では確かに「確かな」乖離があり、また、そこに横たわる距離は絶望的なものであったはずだ。
ぼくという意識が、ひどく滑稽なものに思われる。意識と言うのは、つまり自らの存在そのものであるはずだ。つまり、ぼくという現存在自体に何らかの異常、或いは問題があるのかもしれない。ないしは、元々欠陥だらけである自らの自意識に、長い眠りから覚めてようやく気が付いたに過ぎないのかもしれぬ。兎角、ぼくはいま只管に寂しい。
夢は一つも見なかった、と思ったが、一つだけ見ていたのを思い出した。部屋の中を大きな蜂のような昆虫が大量に飛び回っている夢だ。ぼくは眠たくて仕方ないのだけれど、何とか起き上がって虫たちを退治する。殺虫剤なんて部屋にはないし、そんなものでは死なないほどに巨大で屈強だ。ぼくは雑誌を手に取って、壁や床に張り付いた連中から一匹ずつ叩きのめしていく。もちろんそういった類の作業と言うのは、ある程度続けていると段々機械的なものになってくる。そこにもまた、ぼくの意識が今までのそれ、或いは自身以外から離れていく様を表しているようにも思われる。無限にも思われる数の蜂を一匹潰し、また一匹潰す。その体液が壁紙に染みを作って、ぼくの部屋は斑点模様になっていく。黒死病のように廃れた斑点の部屋。ぼくは夢においてぼくの部屋を俯瞰している。退廃的な、あまりに退廃的な。下着一枚で動き回るぼく自身を眺めながら、夢は少しずつ霞んで消えていく。消えゆく意識の様子が、視覚的に消えていく。その矛盾にも見える豊饒な喪失がぼくの(それは最早如何なるぼくなのか分からない)胸を激しく打つのだ。
如何なるぼくなのか分からない、としたのは、意識と無意識とのはざまにおいて、主体が何者であるかすら分からなくなってしまっていたということを明示している。果たして本当のぼくはどこにいるのか、ということだ。斑点の小部屋で蠢いている自分なのか、それを上から眺めている自分なのか、夢から覚めて茶を飲む自分なのか、食道の細動に触れて感じる自分なのか、或いは眠りにつく前の自分なのか。そのどれとも違う感じのする自分がいま、自我を留めるに苦悶しながら、自らを咀嚼している。意識が飛び散ってどこかへ消えてしまう前に、ぼくはぼくを取り戻す必要があるのだ。
眠りのいざないが、夜に隠れてやってくる。
2013/04/10
お腹が痛い
過剰なまでの孤独感、喘ぐことさえできない閉塞感、そういったものに一晩苛まれた。身動きの取れない向かい風のような、潜水の先の水圧のような、或いはそれよりももっと恐ろしく、非情な力がぼくの精神にまとわりついて、それは離れようとしない。ぴったりとぼくの表面を覆い尽くして、それはべたつくとも滑ることも無く、ただぼくの皮膚さえも、冷酷に生き殺しにしてしまおうといったところなんだろう。
天気も芳しくはない。ぼくにまとわりつく不安のように、空もまた暗雲によって侵されているのだ。誰もそれには気づかない。それというのはつまり、知らぬ間に病魔に冒され始めるぼくと、空のことをとだ。いずれにしても、プログラミングの授業はなんとかせねばならぬ。
*
今学期大変なことは、ゼミ(×2)、プログラミング、アルバイトといったところだが、いや、列挙してみると大したこともないのかもしれぬ。ここから夏までに奮闘したらば、そのままスムーズに卒業が見えてくるはずなのだ。がんばれおれ、大丈夫だ。
2013/04/08
ピーナッツ・ヴィーナス
深夜の横浜で朝までバイトをしてきます。本日初出勤、某ネットカフェでの仕事なのだけれど、問題は体力だ。持つのだろうか。明日は一応三限からなんだけれど、やっぱり四限からにしようかしら。いろいろなことを考えている。とかく、現段階ですでに眠い、非常に眠い。睡眠時無呼吸症候群であることが指摘された。金曜あたり病院に行ってみようと思う。睡眠が害されるのはなかなかに面白くない。くるりとチャットモンチーを聴いて、バイトがんばろう。明日はゼミ。
2013/04/06
ダンボール・マウンテン
部屋の中にダンボールが散乱していて、もういい加減見苦しいので片付ける。今日は春の嵐で天気が荒れると聞いていたからぐっすりゆっくり眠っていたのだけれど、どうやら嵐は夕方から訪れるらしい。こんなことなら午前のうちに黒い靴を買いに出かけるべきだった。横浜はもう、遠いので、近くで探してみようと思う。
レコードでルイとデュークの共演を聴いて、それからコンポの出力ドックにPCを接続しなおして、チャットモンチーとくるりを聴く。土曜の午前はそれはもう、何もなく過ぎていく。何もない。その虚しさと生温い心地よさに、ぼくはいつまでたっても飽きることができない。忙しない社会の渦とは裏腹に、ぼくの八畳とちょっとの部屋ではゆっくりと時間が過ぎていく。可愛い女の子のことを考える。華奢で肩が小さく、黒い髪が肩まである胸の小さな女の子。少しふっくらとしていて胸の大きな、眼鏡をかけた女の子。金髪で足の長い、タイトなパンツの似合う女の子。いろいろな女の子が世の中には溢れていて、彼女たちは総じて美しく輝いている。
最近、嫌な夢を多く見る。旧友にぼろくそ言われる夢だとか、仲のいい女の子に嫌われてしまう夢、恐ろしい思いをする夢、家族に関わる夢。寝起きは最悪で、昼間でもすごくぼうっとしてしまう。どうしたらいいのだろう。ほっとする時間がほしいのだ。
*
くるりを聴いたらすごく、気持ちがよくなった。天気は悪いし、午前は潰れてしまったけれど、これから出かけよう。希望が無くたって、ぼくはぼくなのだ。
*
くるりを聴いたらすごく、気持ちがよくなった。天気は悪いし、午前は潰れてしまったけれど、これから出かけよう。希望が無くたって、ぼくはぼくなのだ。
2013/04/05
シーチキンマヨネーズ
空は晴れ渡っている。昨晩、明け方までバーやら居酒屋やらを渡り歩いて友人や後輩と語るに、ぼくはやはりぼくのままでよかろう、たる確信をより一層深く持つことができた。結句、ぼくは恵まれている。昼前に目を覚まして、大学の時間割を作った。今学期は何かと忙しくなりそうだ。研究会を二つ抱え、プログラミング科目を抱え、バイトを抱え、自動車学校を抱え(仮)、そして、大きな希望をも抱いているのだ。
あの文章における「彼」とはぼくのことだ。今回だけは確信が持てる、そうして、それがぼくであることで、ぼく自身は本当に勇気づけられた。まだ少し冷たい春の風が川を抜けて、両岸の桜並木が粉雪のように花弁を降らせる。ぼくはシーチキンマヨネーズのおにぎりを齧りながら、幼稚園の上空をゆらゆらと揺れる鯉のぼりを眺めた。彼女はまだぼくのことを信じてくれているのだ。それだけで、世界は見違える。そこには時間と言う意味性はない。時間の長さが何かを物語っているようなケースではないのだ。それは妙な感覚だ。ただ、そこにはどしりとした、何物にも代えがたい大きな信頼が横たわっているのだ。ぼくは大仏を思い描く、それは鎌倉で見た大仏でもいいし、タイの寝そべった大仏でも良い。本当に感謝している。
最近、いろいろなことを思い出す。写真を見て、音楽を聴いて、何かを食べて。いろいろな別れがあって、それは恋人でも友人でも、彼らに会って笑って話をしたい。
読書のこと
ぼくの思うに、人間にとれば、生きることにおいて重要なのは考えることなのだ。考えることが生きることであると言っても過言ではなかろう。あくまで「人間として」生きるには、頭を使うことが条件なのだ。
考えれば考えるほど、人は死に近づくだろう。
考え尽きたときに、人の精神は死ぬのだ。
そして、本を読むと、ぼくはいろんなことについて考えてしまう。いろいろな読書があるだろう。娯楽として、活字を楽しんでみたり、漫画のように、その情景に悦楽を見出したりなど。しかし本当の、真実の読書と言うのは、ぼくはその本の精神性を吸収することにあると思う。そしてそのとき、読者は考えざるをえなかろう。その本を書いた人間が何を考えていたのか、それについて自分はどう感じるのか。
考えれば考えるほど、人は死に近づいていく。何故ならば、本当のところ、そこに生きる意味などほとんどないからだ。ぼくらはしばしば社会という立場からいろいろなことを眺めてしまう。しかし考えてみると、社会と言うのは所詮、虚像なのだ。人間が作り出した概念でしかありえないのだ。そこに真実があると言えるだろうか?本を読めば、限りなく本質に近い部分にまで寄っていくことができる。雑音の無い深海に少しずつ沈んでいったとき、ぼくらが本当に静謐な思考を手に入れたとき、少なくとも精神においては死を見るだろう。
ぼくはそれを肌で感じた。高校のころ、本を読むにつれ、少しずつ僕の内的存在が死に近づいていく感覚を、本当に感じたのだ。そして恥を偲んでそれを友人に伝えたならば、彼もまた、カミュを握りしめながら同じことを言ったのだ。
死んだ人間の本を読むのは実にたのしい、何故ならば、彼らは無条件に考えつくしている存在だからだ。彼らの全うした精神的生のエッセンスがその著作であり、それを読むことによって、読者はダイレクトに生きることについて考えることができるだろう。
こう、論理的に提示してみても、分かってくれる人は本当に少ない。おろか、鼻で笑う人が本当に多いのだ。だからぼくはもう、話さないことにした。
考えれば考えるほど、人は死に近づくだろう。
考え尽きたときに、人の精神は死ぬのだ。
そして、本を読むと、ぼくはいろんなことについて考えてしまう。いろいろな読書があるだろう。娯楽として、活字を楽しんでみたり、漫画のように、その情景に悦楽を見出したりなど。しかし本当の、真実の読書と言うのは、ぼくはその本の精神性を吸収することにあると思う。そしてそのとき、読者は考えざるをえなかろう。その本を書いた人間が何を考えていたのか、それについて自分はどう感じるのか。
考えれば考えるほど、人は死に近づいていく。何故ならば、本当のところ、そこに生きる意味などほとんどないからだ。ぼくらはしばしば社会という立場からいろいろなことを眺めてしまう。しかし考えてみると、社会と言うのは所詮、虚像なのだ。人間が作り出した概念でしかありえないのだ。そこに真実があると言えるだろうか?本を読めば、限りなく本質に近い部分にまで寄っていくことができる。雑音の無い深海に少しずつ沈んでいったとき、ぼくらが本当に静謐な思考を手に入れたとき、少なくとも精神においては死を見るだろう。
ぼくはそれを肌で感じた。高校のころ、本を読むにつれ、少しずつ僕の内的存在が死に近づいていく感覚を、本当に感じたのだ。そして恥を偲んでそれを友人に伝えたならば、彼もまた、カミュを握りしめながら同じことを言ったのだ。
死んだ人間の本を読むのは実にたのしい、何故ならば、彼らは無条件に考えつくしている存在だからだ。彼らの全うした精神的生のエッセンスがその著作であり、それを読むことによって、読者はダイレクトに生きることについて考えることができるだろう。
こう、論理的に提示してみても、分かってくれる人は本当に少ない。おろか、鼻で笑う人が本当に多いのだ。だからぼくはもう、話さないことにした。
2013/04/01
ユキちゃん
今年度はじめて大学に赴く。なんだか不思議なもので、先学期の期末試験を受けていたころはまだ寒くて、スキーだなんだと言っていたり、ダウンコートに首をひっこめたりしていたのに、今日のキャンパスは春絢爛として非常に明るかった。しかし考えてみれば当然のことだ。冬が終わって春が訪れ、新しく新入生がやってくる季節。桜が咲いて、雨が降って、桜が散っていく。近所の川をピンクに染めて、新しい季節の訪れを祝しているようにも見えまいか。ぼくは学事の窓口で手続きを済ませると大学図書館で少し本を読み、キャンパス内をふらふらと散歩しながら、内設されているサブウェイで昼飯を贖った。幾人かの知り合いとすれ違って、彼らと挨拶をした。
それから迷った挙句、横浜に出る。すごく眠い昼下がりで、往復の電車の中にぼくはひたすら眠り続けた。横浜駅のバナナレコードでダニー・ケイのレコードを買って(ダニー・ケイ!CDじゃまず手に入らないだろう)、ヨドバシカメラでレコードプレイヤーを見る。一番安いのを買うことをほとんど決めたが、まだ少し調べたいことがあったので今日は我慢。明日、バイトの面接に向かう際買おうと検討している。
帰り道の川沿いにはカップルがひしめき合っていた。いつもならばじとっと睨んでしまうところだが、今日はどこか幸せな風景に見える。それは少なからずぼくが幸せだからだろうか?しかしぼくには、自分が幸せであるようには感じられない。いやでも、或いはそうなのかもしれない。澁澤も言っているが、そんなもんなのだ。なんだか最近は肩の力を抜いて生活できている。理由は分からぬ。快適な春の風がいやでもぼくのことを癒しているのかもしれない。
モーモールルギャバンを聴きながらこれを書いている。遠方の愛を思いつ、リレキショを贖いにコンビニへ向かおう。
鎌倉
鎌倉に行ってきました。ずいぶん歩いて、いい散歩になった。しかしこうして家族が揃って笑えるというのは、とかく幸せなことです。これを実現した父母を心から尊敬しているし、一つの生き方としての成功がそこにはあると思う。夜半、父親と二人でジャズバンドの演奏を聴きながら酒を飲んで話すには、やはりぼくらは似た者同士と言うことだ。つまり、ぼくは自信を持った。今のままでも、今その場所での努力を惜しみさえしなければ、ぼくはきちんとやっていけるのだ。社会的な成功と、非社会的、つまり観念的かつ内省的な充実と言うのは、確かに両立が可能なのだ。ぼくはカールスバーグを延々とお代わりしつづけながら、バンドを聴いた。途中でバースデーソングが流れて、女子大生の一群に祝いのメロディが流れた。藤沢の夜は温かい。四月になってもぼくはこのままでいようと、心から思うことができた。
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