2013/04/12

大いに眠れり


 夜中の一時ごろ眠りについて、昼十一時に目覚めて、昼食を済ませて、十五時まで眠っていた。十四時間ほど眠り続けて、ようやく先程寝床から起き上がったところなのだけれど、体が気怠い。なんだろう、悲しい気持ちがする。今や日は傾ききり、薄闇がぼんやりとぼくの部屋と意識とを包んで隠そうとしている。ぼくは一人ぼっちで胡坐をかいて、この文章を書いている―少しずつ夜のヴェールに覆われていく意識はまた、徐々に眠りへと引きずり込まれていく。

 ぼくは隠されようとしているのかもしれない。何者かによって、夜という大きな布を被されて隠ぺいされようとしているのか。そんな気さえしてしまう。身体全体がぶよぶよとむくんだ感覚がして、それに内包されているはずの意識は猛烈に朦朧としている。白い壁に反射する弱光が頭痛を誘い、消してしまいたいのだけれど、そんなことをすると愈々また、眠り込んでしまうことになる。それではあまりに悲しいではないか。ぼくには幾つものすべきことがあるのだ。

 お茶を一気に流し込んでみたけれど、それはぼくのことをさらに落胆させるに過ぎなかった。食道を流れていく液体の感覚は、ぼくの知っているそれとはかけ離れている。それは何か、異物と異物とが接触している振動を、外から触れて感じているような、そういう感覚だ。お茶の滑っていく壁はぼくのそれではなかった。何かひどく人工的で、精密な計算に則った出来事のように思われた。その確かな乖離―無論、事実その食道は言うまでもなくぼくのものであるけれど、意識の上では確かに「確かな」乖離があり、また、そこに横たわる距離は絶望的なものであったはずだ。

 ぼくという意識が、ひどく滑稽なものに思われる。意識と言うのは、つまり自らの存在そのものであるはずだ。つまり、ぼくという現存在自体に何らかの異常、或いは問題があるのかもしれない。ないしは、元々欠陥だらけである自らの自意識に、長い眠りから覚めてようやく気が付いたに過ぎないのかもしれぬ。兎角、ぼくはいま只管に寂しい。

 夢は一つも見なかった、と思ったが、一つだけ見ていたのを思い出した。部屋の中を大きな蜂のような昆虫が大量に飛び回っている夢だ。ぼくは眠たくて仕方ないのだけれど、何とか起き上がって虫たちを退治する。殺虫剤なんて部屋にはないし、そんなものでは死なないほどに巨大で屈強だ。ぼくは雑誌を手に取って、壁や床に張り付いた連中から一匹ずつ叩きのめしていく。もちろんそういった類の作業と言うのは、ある程度続けていると段々機械的なものになってくる。そこにもまた、ぼくの意識が今までのそれ、或いは自身以外から離れていく様を表しているようにも思われる。無限にも思われる数の蜂を一匹潰し、また一匹潰す。その体液が壁紙に染みを作って、ぼくの部屋は斑点模様になっていく。黒死病のように廃れた斑点の部屋。ぼくは夢においてぼくの部屋を俯瞰している。退廃的な、あまりに退廃的な。下着一枚で動き回るぼく自身を眺めながら、夢は少しずつ霞んで消えていく。消えゆく意識の様子が、視覚的に消えていく。その矛盾にも見える豊饒な喪失がぼくの(それは最早如何なるぼくなのか分からない)胸を激しく打つのだ。

 如何なるぼくなのか分からない、としたのは、意識と無意識とのはざまにおいて、主体が何者であるかすら分からなくなってしまっていたということを明示している。果たして本当のぼくはどこにいるのか、ということだ。斑点の小部屋で蠢いている自分なのか、それを上から眺めている自分なのか、夢から覚めて茶を飲む自分なのか、食道の細動に触れて感じる自分なのか、或いは眠りにつく前の自分なのか。そのどれとも違う感じのする自分がいま、自我を留めるに苦悶しながら、自らを咀嚼している。意識が飛び散ってどこかへ消えてしまう前に、ぼくはぼくを取り戻す必要があるのだ。

眠りのいざないが、夜に隠れてやってくる。

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